■年も改まって最初の森美術館は「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」。イ・ブルは1960年代に生まれた韓国の作家で、2010年には都現美の「トランスフォーメーション展」にも参加している。都現美はテーマに基づくグループ展だったが、今回の森美は回顧展形式で、初期のシリーズ「モンスター」から、「サイボーグ」「私の大きな物語」などのシリーズを経て、新作の展示へと至る。
都現美の「トランスフォーメーション展」で扱われていたというのが、イの作品の特徴をすでに示していたのだと思う。初期の「モンスター」にせよ「サイボーグ」にせよ生まれもっている〈身体〉への懐疑か、嫌悪のようなものを抱いていたのではないかと思う。少女が「大人の女性」の身体へと移行することを拒否する感覚、はある程度普遍的なものだと思うのだけど、その感覚が「モンスター」シリーズには端的に現れていたのではないかと思う。
その拒否感覚は理想を希求する動きへと表現を変える。現実を否定するだけでは寄る辺を無くしてしまう。拒否感覚の反動は「サイボーグ」シリーズとして表れ、意識する対象がパーソナルからソーシャルへ拡大したものが「私の大きな物語」シリーズだったのではないかと思う。生まれ持った身体にせよ、今現在あるあらゆる社会にせよ、それらは無計画の元に進行した結果として表れている。だからそれらを否定する表現は、人工的に形作られたものとなり、人体であれば〈サイボーグ〉となるし、社会であれば「人工世界」としてのユートピアとして表出されることになる。
しかし、過去にあった過度な理想への希求は、結局悪夢しかもたらさなかった。極端な理想志向は現実と断絶せざるを得ず、断絶してしまった理想像は実現することはないし、実現したところで違う形の非理想的な状況を作り出すだけでしかない。そのことに気がついたのか、あるいは作家自身が円熟していったのか、あるいは現実世界が必ずしも悪い方向へと向かっているだけではないということに気がついたのか、新作から受ける印象は初期のものにくらべるとずっと優しく、祝福されている雰囲気を持っている。
ただ、その変化はやはり作家自身が歳を重ね、経験を積んだことにより増した「円熟さ」ではないかと思う。若い頃に極端に走っていた人が、歳を取るにつれそのとがり具合を穏やかなものにしていくのは珍しくはないからだ。ただ、イの感心の対象がその時々の韓国社会に向けられていたことを思えば、それは少なくとも、イを取り巻く社会そのものも良い経過を経てきたということの表れでもあると思う。