■初めて神奈川県立近代美術館・葉山館に訪れたのが確か前回の〈プライマリー・フィールド〉展のはずで、それが2007年。そうだっけ、というのが正直なところなのだけど、その後自分は名古屋に常駐したり、今は山口に常駐していてばたばたしているから、そんな感覚なのだろう。失礼な話だけど、〈プライマリー・フィールド〉展で僕ははじめて「近代美術館」というところがモネとかルノワールとかそういう時代の人たちの作品だけを扱う場所でないことを知った。それと、この美術館が風光明媚な立地にあるということも。
〈プライマリー・フィールドII〉に参加しているのは7人の画家。そういえば前回は彫刻がメインの作家で構成されていた。今回は絵画。高橋信行、小西真奈、保坂毅、美和美津子、東島毅、伊藤存、児玉靖枝。うち、小西真奈の作品は静岡県立美術館の〈風景ルルル〉で目にしています。その時の感想も書いていますが…つたないですね。今も大して変わりませんが。
小西真奈さんの作品の特徴は以前書いている通りで、実在する風景を描きつつも、色調やフォルムのディテールが飛ばされた結果、匿名化されており、リアルなのだけどうっすらと非現実感がよりそっているような印象を持ちます。静岡ではその感覚を「もどかしさ」と感じたのですが、今回はそうした感覚はなく、描かれた景色は穏やかな印象で、自分のその景色の中に入りたいと、親しみを思わせるものでした。写真を元に描かれていると思うのですが、そのプロセスの中で業雑物が省かれて、一種純化した景色に変貌しているのだろうと思います。ただ、その純化された景色がどこか非現実的なのも確かで、実際の自然な景色の中に身を置いている時とは異なる距離感が残るのも確かです。景色の「確かさ」がなく、ふわふわした軽さを感じます。
目で見たものをそのまま描くのではなく、一旦光学処理された映像を描いていると思われるのは美和美津子さんの作品も同様で、ただ、こちらは作品ごとにその「画像処理」が介在する度合いが異なっています。『INTERIOR』や『床下の死体』は粒子が粗く、ハレーションを起こした映像フィルムをプリントしたような印象を与えるように描かれています。『床下の死体』では元が安いレンズを使っているらしく、色収差まで描かれています。
それらの絵は、実物を見て描かれたものではないという意味でリアルではあり得ないのですが、しかし、それらの絵を前にするとリアルな光景と感じてしまう。映像を媒介として世界を見るという体験が自分に染み付いていて、その記憶が「リアル」と感じさせている。ただ、それは約束事に近い心理機構であって、日常生活においてあえて意識することもない現実感とは違う質のものです。リアルと感じるように条件付けられていると言えるかもしれません。
画像処理という意味では高橋信行さんのミニマリズムな作品は極端に省略された形態と言えるでしょう。ディテールは全くといってよいほどに喪われ、色彩のパターンと呼んで構わない状態にまでなっています。そこまで省略されてしまうともちろんリアリティを感じることは全くできないのですが、面白いのはそれでも「何を見ているのか」は理解できるということです。もちろん見る側の想像力が喪われたディテールを補っているからなのですが、高橋信行、小西真奈、美和美津子それぞれのディテールレベルの異なる絵画で、それぞれ「何を見ているのか」を認識する働きは同じなわけです。
絵はあくまでも絵であって、それがどれだけ精細にいわゆる「フォトリアリスティック」に描かれていても現実そのものでないのは自明のことです。それでもリアリティを感じるのは見ている側の心の働き(あるいは流行の言葉を使えば「脳の働き」)で、その想起に記憶へのリファレンスが関与しているからでしょう。絵画は視覚記憶を呼び出すキーとなっていて、そこに描かれ方から生まれる手触りが印象となって加味される。そうした、「フェイクな画像からリアルを想起する」メカニズムは面白いものだと思います。
東島毅さんの大型抽象絵画作品は、とにかく巨大で、圧倒的な存在感。ちょっと面白いのは『思推の光』で、ひらたく言うと「アイディアがひらめいた時に光る白熱球の絵」みたいなものだと思うのですが、その光に使われている色が展示室の照明の光を反射し、本当に光って見えたことでした。
順路的にはトリの児玉靖枝さんの作品は生々しい「リアリティ」を与えた他の具象絵画とは違い、幽玄な、どちらかと言えば水墨画から受けるものと似た印象をうけました。林、が描かれているのですが、同様な題材を扱った小西真奈さんの『キンカザン2』に描かれた、溢れる緑色とは逆に、描かれたものは背景の色の中へ消え入ってしまいそうです。その存在感の弱弱しさは、想起された記憶から得られる「リアル」という感覚の儚さに似ているように思います。