■〈幻覚肢〉という言葉がある。事故などで喪われた手、足などの身体の部分がまだ残っているように感じられることだが、そうした感覚が存在するということは意識は物理的身体を直接知覚しているのではなく、脳内に作られた身体モデルを通して知覚していることを意味している。物理身体の情報は視覚や触覚により直接知覚されるが、その情報と平行して身体モデルへマッピングされる感覚が存在している。幻肢痛はそのようにして生じるとされている。
その身体モデルは物理身体にまとわりついている。物理的実態を伴わないが、脳にとってそれは現実と区別がつかない。つまりそれが〈幽体〉というわけだ。
久しぶりの森美を訪れたのは年末。山口にいるときの感覚で家を出たらだいぶ早すぎたことに気づいたのは横浜を過ぎた頃。いつもなら恵比寿から日比谷線を使うのだけど、時間調整と交通費節約の意味もこめて品川からバスに乗り換えて六本木へ。時間は若干かかるにしても、ヒルズの真下まで行くので地下鉄を使うよりも便利かもしれない。
会場で真っ先に出迎えるのは展覧会のタイトルにもなる〈Phantom Limb〉(幻肢)。両手をラズベリーの実で赤く染めた少女が寝そべっている、どことなくエロチックな組写真。その少女の姿はまた、中空に浮かんでいるようにも見える。遠目には手が切断されたようにも見え、初見では多少ショッキングな印象を受けた。
実体を持たない幻のボディは物理身体に二重写しとなる。我々は普段そのような知覚構造を意識しない。意識できない。我々の意識は脳が持つ知覚メカニズムの内部に閉じ込められているためだ。
そうした物理身体とは異なる身体イメージとしては、「セルフイメージ」もそこに含まれるだろう。幻肢が知覚メカニズムの外部に起因するものなら、「セルフイメージ」は意識の内側にある。実際の自分自身と、「自分はこうあるはずだ/こうありたい」というイメージ。幻肢と違うのは、セルフイメージは意識的に作り出したものであるがために、物理身体をイメージに合わせようとするモチベーションが働くことだ。卑近なところではダイエットがそれであるし、アスリートがトレーニングを重ねて体を作っていくのもそれに含まれる。あるいは矯正下着、コルセットといったボディシェイプを整える着衣はセルフイメージを具現化したものという見方ができるかもしれない。
PixCellから入ったためなのか、意外だったのはスカル・骨格をモチーフにした作品が多数展示されていたことで、その中で〈ダイイング・スレイブ〉シリーズが印象に残る。「我々は死に行く運命に仕える奴隷」という意味がこめられているようだけど、作品から受ける印象は死からは遠い。特に〈タービュランス〉から受ける印象は、むしろ生のダイナミズムであって、死する運命への諦観のようなものは感じられない。「いずれ死ぬ。だから何」とでも言いたげだ。
全体の中で強く印象に残るのは〈ホロウ・シリーズ〉の一連の作品群だ。存在する者が見にまとう雰囲気、オーラのようなものを表現した彫像群は、イメージとして死のモチーフを使っていたとしても、やはり生命力にあふれる。その力強いイメージは観る人に必ず強い印象を残すだろう。