■この本を読んでいるとき、ちょうど都現美の「トランスフォーメーション展」を観る機会があった。奇しくも「トランス…展」はヒトの変容をモチーフとした作品を集めた企画展で、そのモチーフは『ダーウィンの子供たち』にも通じる。遺伝子の人為的な改変、人体改造、長期スパンをかけた環境への適応、あるいはセルフイメージの混乱、動揺。太古から姿の不変だった生物は存在していないし、今ある生物の姿がこれからも不変であるはずもない。しかし、実際に変容する姿を目の当たりにしたとき、自分自身の存在が揺らぐように感じ、不安に思う。その不安はSFでは古くからおなじみのテーマでもあった。
『ダーウィンの子供たち』は前作『ダーウィンの使者』の続編。レトロウィルスによる遺伝子レベルでの変異が人類にもたらされ、いわゆる〈新人類〉が数百万のオーダーで誕生する。その子供達が思春期に差し掛かった時期を描いている。
子供達が新たなウィルス感染症源になることを恐れた旧人類達は彼らを隔離し、監視下に置いた。しかし、それでもウィルス疾患は猛威をふるう。その中で続けられた研究の結果が指し示したものは、ウィルスによる遺伝子変異が今の人類を生み出し、そして次の人類を生み出しているという黙示なのだった。
生物の変化は可能性の具体化を示しているが、その変化に取り残された者にとっては環境が曖昧となり、それを脅威と感じるようになるかもしれない。フィクションとして『ダーウィンの子供たち』は、脅威として受け取られている状況を描いている。
全ての変化が良い方に傾くのは都合が良すぎるとは思う。実際の〈進化〉はその時々の環境との組合せで、それぞれの〈変化〉が次世代に残るかどうかが決まってきた結果だからだ。
逆に言えば、環境が変化し続ける状況下では、〈変化しないこと〉はリスクになる。変化する過程に抗うことで、短期的にはリスクを軽減できるが、やがてはそのコストに負けてしまう。環境に適応し、自ら変化し続けることが長期的には望ましいのだろう。
ただ、『ダーウィンの子供たち』はそうした進化論を巡る議論には(今更でもあるだろうし)踏み込んではいない。変化を否定するもの、肯定するもの、両者の長期にわたる対立の期間を経て、共生の契機を得る。生物の変化はそのまま世代交代を示すものだから、そこで新旧の世代間闘争が続くようではただいたずらに消耗していくだけだろう。訳者あとがきにもあるように、このあたりの処理は、こうした〈新人類〉ものでは避けて通れないテーマになっている。
読んでいる者としては、その新人類を持つ家族が政治的状況に引き裂かれ、家族が再生する過程を望んでいるのだから、穏健な解決を望まざるを得ない。ただ、読み終えてしばらくしてから振り返ってみると、少し簡単に流されているような気もする。
そして、また、本書では途中主要登場人物が神秘体験をするのだけど、それについてはほったらかしのままになっている。これはさらに続編が書かれるということなのだろうか。