■先週、有名な難読地名「神津佐」(konsa)の由来について仮説を立てたのだけど、おそらくは「上」→「神」への置き換えがあったと思われ、その理由がなんとなくひっかかったままだった。確かに地図上では神社の存在が確認される。これは一度フィールドで確認しなければならないだろう。暇だしな。
近鉄志摩磯部駅から志摩バスセンターへ徒歩で移動し、そこから五ヶ所行きバスに乗る。磯部バスセンターから神津佐神社前バス停で降りる。頃は秋。伊勢志摩国定公園に近い山々の木立に黄色や赤がまばらに見える。行程としては結局はCAMI(伊勢現代美術館)へ向かうのだけど、このバス停から歩くと優に1時間以上かかるので、今回は1時間ほど神津佐周辺を歩き回ってみるつもりだった。バスは1時間に1本通過するということもあるし。
バス停を降りて、磯部方面へ戻る形で数分歩くとバスの車窓から見えていた鳥居がある。その横には社務所もある。意外と言っては失礼だが、こじんまりとしていてきちんと手入れの行き届いている印象があった。参道が山の斜面を登っていて、見上げると奥は林の中に隠れている。こういう造りを持っているところでは周囲の手入れがされていないと、伸び放題の木々の勢いが強くて密集した枝と葉でびっしりと隠され、参道には落ち葉が厚く積もっていることになりがちなのだけど、ここはそうではなかった。成りは小さいけれど、凛としている。他所の神社をそういう風に評するもんじゃないと思いますが。あれ、でも「神原神社」って書いてある。
神津佐の「神」の字について由来が解ったりしないかなあと参道を登りきると、ここのお社は拝殿を持っているのでした。ずいぶん立派なところです。
周囲には由来を説明した看板などなく(まあ、観光客は来ないだろうしなあ)、確認できたのは明治後期に建立された、神社への寄進についての碑の中に神津佐區(区)という字句があったくらいで、解ったことはその頃すでに神津佐と表記されていたことぐらい。
ただ、この神社の造りはとても立派なもので、境内の鳥居には寄進者の名前があったり、個人の寄進があったことを記す碑には「凱旋記念」とか記してあるものがあったりで、往時の(おそらくは今も)地元の人々の篤い信仰の中に迎えられていたであろう姿を彷彿とさせるものがあった。ここの建立がいつ頃まで遡るのかは解らないけれど、上津佐-下津浦の2つの漁撈コミュニティの中で上流側の上津佐が地政学的に神事機能に近いことが「上」→「神」への置き換えを容易にさせたのではないかと想像するのは容易い。
しかし、「神原」って名前はそれはそれで気になる。
ただまあ、なんとなく納得するものはあったので五ヶ所へ移動。そこで地元の人との会話で「今日は神津佐神社前というバス停で降りたんですよ」と言ったら怪訝そうな顔をされる。で、やむなく神津佐の奥の方に神原神社というのがあって、そこです、という話をすると通じる。そこで、「あそこって以前は神津佐神社という名前だったんですか」と訊くと違うと言う。昔から神原だったと。
詳しく聞くと、昭和30年まで、神原(Kanpara)村というのが磯部と神津佐の間にあったのだが、市町村の制定字に神原村は2つに分けられ、磯部と五ヶ所(現南伊勢)に取り込まれたのだと言う。その行政区分の名残は「神原地区」として残っていると。なるほど。じゃあ、神津佐神社前というバス停は、と重ねて訊くと「間違ってますね」と一言の下に切って捨てられてしまった。ええええ。今まで誰も何も言わなかったわけ?
なんていうか、大らかだなあ。というか、もしかしてあのバス停、利用している人がいなかったのか?