■「美少女」をモチーフに選んだ作品というのは古今東西多いわけですが、その「美少女」の系譜を追いかけた展示。ちょっとキワモノっぽい先入観も持っていたのですが、フライヤーの吹き出しには「美少女なんていないよ」とあって、それが「萌え」特集ではないよというエクスキューズになっている。ただ、タイトルからどういう構成になるかは解ってしまうところがあって、「見られる対象としての想像の少女」⇒「観用少女」(川原由美子ではなく)という構造を最初に示したことがすべてだと思う。この題材そのものが殆ど語りつくされているところがあって、そこにあまり新規性は期待してはいなかった。展示内容もだいたい見当はつけていたつもりだけど、思っていたほどアニメよりということはなく、単純な萌絵からズラした作品が多いようでした。その点でフライヤーの「美少女なんていないよ」というのはよく言い表しているのかもしれません。ただ、そのズラし方というのも想定内ではあったのですが。
「美少女」というのが、端的に言ってしまえば欲望や願望の対象としての非実在の存在であって、生身の人間とは違う、という認識がまずあって、そのことが繰り返し語られるのですがそこから先に進まないもどかしさというのは感じていました。男性から見た欲望・願望の対象としての少女像、という構造は解りやすいのですが、その(いってしまえば)「かわいらしさ」というものに対して女性側から全否定されることは少なく、スタイルの一つとして受容されている。
理想像は理想像としてあって、そのスタイルが生身の人間に適用される型になってしまうと息苦しくなってしまう。そのことが「女学生」という短編アニメ作品で端的に描かれている。
ただ、まあ、観ている側としてはそんなことは知っているので、そこを改まって言われてもな、とは思う。主催者側の意図は解るし、美術館に新しい層を呼び込みたいという思惑もあるのだろうなとも思うのだけど、それにして取り込みたい側が持つ「美少女象」への理解がステレオタイプすぎるのではないか。こういう絵だってあるし、これはこれでありだと思うし。ただ、誰が誰だかちょっとわかんないけど。
美少女フィギュアの展示もあって、これなら村上隆氏のフィギュアもあるかと思ったのですが、そちらはなく、代わりにまどマギ・プリキュア的な大版の絵がありました。ただその作品に批評性があるかというと、数多流通している作品の中に埋もれてしまってよくある同人作品の一つのように見えていました。単なる萌絵として。実は何をどう描いたとしてもどこかの同人作品のように見えてしまう、というのがビッグサイトあたりのイベントが持っている裾野の広さであって、この展覧会における村上作品はそのことを示しているようにも思えます。
展覧会のおわりの方には加藤美佳のカナリアがあって、やはり見入ってしまう。骨格がどこか人間離れしていて少し不気味なところもあるのだけど、その目力から視線をはずすことができない。カナリアで描かれている少女は、実際には人形を写真に撮ったものを油彩で描く、というプロセスを経ていて、実在した少女を描いているわけではない。キャプションではそのことを再三注意喚起しているのだけど、だから何なのという感はぬぐえない。絵画に描かれた少女は、あくまでも「描かれた象」でしかないのであって、それがどれだけ写実的であったとしても写真の被写体のようなポジションにはいない。それは「美少女」とは関係なく、風景画であっても同じ構造を持っているはずなのだけど。描かれた象は、画家によって作られた象であり、画家はピグマリオンに連なる系譜にあるのではないかと思う。その構造を意識している作家ももちろん多くあって、意図的に「かわいらしい」イメージからズラした作品を制作している。静岡県立美術館のロビーでオープン展示されていた大型作品もその一つだろう。「かわいい」と言いにくい「かわいい」少女の絵、というのもあまり珍しいスタイルではなくなっていると思う。