■ミランダ・ジュライの名前は2008年の横浜トリエンナーレで知った。「廊下」というタイトルの作品で、狭い通路を進んでいくとその間にメッセージが書かれた紙に幾枚も出会う。その文章を読んでいると、この細い通路を歩くその道行が、そのまま誰かの人生(あるいは自分の人生)とかぶっているように思えてくる。別に人生訓めいたものではなく、時折ユーモアを感じさせながら、そう思わせる。人は一人で歩いていくのだと(という気がした)。
『いちばんここに似合う人』はその「廊下」の変奏曲だ。
このタイトルはうまく訳したものだと思う。原題は'No one belongs here more than you.'──あなた以上にここに相応しい人はいない。他に誰もいない。描かれるシーンはどれも孤独を扱ったものだ。人は他人とのつながりを求めるが、しかし誰かといても、誰ともいない気がする。孤独感が癒されることはない。
短編の中で、誰かと一緒にいる人を羨む場面が出てくる。しかし、羨まれている人が孤独でないという証左はどこにもない。孤独でないように「見える」だけだからだ。
彼らが孤独なのは、共同体幻想が喪われているからだ。あなたと同じわたし、わたしと同じあなた方。同じ価値観を共有していた時代は、しかしすでに終わり、それぞれがそれぞれの島の中で生きている。その孤独感を癒すためには再び共同体幻想を創り上げることが必要なのだが、そのためには互いの価値観の衝突は避けられず、その衝突に彼らは耐えられない。一人で生きていられるまでに彼らは強いが、そこまで強くはないのだ。
共同体幻想が「幻想」であったのは、言葉どおりの意味で誰もが全人格的に〈共同体〉にコミットしていたわけではなく、誰もが何らかの犠牲を払っていたからだ。その犠牲が〈共同体〉から得られる見返りに見合ったものであったうちは良かったが、見合わなくなったとき、その〈共同体〉を為していたコードは共有されなくなり、共同体は喪われる。我慢して付き合っても、得られるものが期待できないと解れば誰も我慢しなくなるわけだ。
16の短編集に登場する彼らはそのコードが喪失した後の世界を生きている。そしてその姿は読んでいる我々自身でもある。各短編の中で描かれる孤独に救いはないが、読んでいる側にとって、その姿は慰めでもある。自分だけではないのだと。その共感に幾ばくかの、前へと歩く力を貰う。共同体のコードが喪われた世界の中で〈孤独〉が新たなコードになっているわけだ。