■横浜トリエンナーレは9/13に開催となったわけですが、どういうわけかこの9月3連休に合わせたかのように企画展の谷間を置いている現代美術館が多かった。あたかもよってたかって横浜に来ようとしているかのようだけど、関係者を知っているわけではないので真偽のほどは知らない。でも半分合っているだろうなという気はしている。
かと思えば、この9月3連休を皮切りに新しい企画展を始めた美術館もあって、北品川に近い原美術館の「米田知子展 -終わりは始まり-」がそれ。米田氏はロンドンを拠点に活躍されている写真家で、その個展となりますから当然写真展になります。
展示されていた写真は大きく「静物」と「光景」に分かれます。1Fの展示は静物。壁紙の写真とか、ヒーターから吹きだす埃で黒ずんだ壁紙とか、湿気てよれた壁紙とか、安っぽい絵画の背景にあるこれまた安っぽい花柄のカーテンとか、壁紙とか、歴史上の有名人が所有していた眼鏡を通して写した手紙とか本の写真とか、壁紙とか、壁紙とか、壁紙。
2Fの展示は光景・景色だけど、風光明媚なものではなく、どこでも見られるようなありふれた感じがする場所。
最初は1Fの写真と2Fの写真との違いが大きくて戸惑った。2Fの写真はなんてことのない通りの写真であったり、田舎の廃屋のような建物であったり、ごちゃごちゃした鉄路の分岐付近であったり、どこかの教室のようであったり、なんかいまいちなヨーロッパのビーチであったりする。
2Fの写真の特徴は、写真だけでは完結していなくて、そのキャプションが必須の要素になっている。例えばいまいちピンとこないビーチの写真は、ノルマンジーのソード海岸で、第2次大戦の欧州戦線で連合国軍側の反抗作戦の諸端において大々的な上陸作戦(オーバーロード作戦)が展開されて、そのエピソードは映画(「史上最大の作戦」)にもなった。
その大勢の兵士を飲み込んだ海岸も今じゃ鵠沼のよう。映画「プライベート・ライアン」は戦場とラストのコントラストがテーマを構成しているけれど、この作品は写真とキャプションで同じテーマを語っている。
2Fの写真に共通しているのはほぼどれも共通して、かつて意味を持った、今の平凡な場所を撮っている。冷戦時に使われていた監視所、かつての東側公共施設にあるコカコーラのロゴの入った椅子。盧溝橋の今。
あることがかつて終わり、その後のプロセスの中で生まれた景色がある。
地雷源に変わったサッカー場、中国と北朝鮮の国境を成す川を渡る婚姻の船、かつてスターリングラードと呼ばれた街のプールで抱き合う男女、震災の遺体安置所に使われた教室。
原理的に目の前の光学記録でしかないカメラが写し取れるのはコンカレントであって、コンテキストは写さない。それはこの写真展の写真も同じで、コンテキストは閲覧する側の中にある。その意味でこれらの作品は写真家が見たものをそのまま見せようとしたのではなく、見る側の中にあるコンテキストを呼び起こそうとしているようだ。会場には若い人も多かったのだけど、ノルマンディーのソード海岸と聞いて何人が「史上最大の作戦」や「プライベート・ライアン」を連想したのだろう。
2Fの解り易い写真を見てしまうと1Fの写真は多少戸惑う。歴史上人物が使用していた眼鏡のレンズを通して、その手による書物のページを写した写真は視線を再構築してみせたものと、解り易く受け取ることは可能にしても、政治的な読み方が入り込む2Fの写真に比べるとずいぶんドメスティックな印象があって、結びつかない。
ただ、キャプション抜きでは完成していないところは共通している。キャプションがもたらすコンテキストがあんまり特徴が無いといえなくも無い被写体に別の意味を与えてしまう。そういう作品の成り立ちようは共通しているように思いました。