■「水辺」という言葉には二つの意味がある。陸地と水域の境界における、陸側と水側。英語のサブタイトル'on the water / off the water'にそのニュアンスは明確に現れている。梨木香歩のエッセー。その「境界」へのこだわりかたが、らしいといえばらしい気がする。
著者はカヤックを始めて水上に一人乗り出す。水の上からしか見れない景色というのがある。水域は陸地を等高線に沿って切り取って、そこで自由に行き来できる空間となっている。それがダム湖のように人為的に形成されたものであれば、その水面に形成される「水辺」の連続線は自然に馴化する以前の、どこか人の手で解剖された生体の切断面のように水上の視座に与えられる。
あるいは、水域から来る異邦人のエピソード(『アザラシの娘』、そして『常若の国』も)。彼らは水中から表れ、水中へ帰っていく。水域は異界であったのだ。そして今も、異界としての水域は残っている。陸地から見る水域は水面が境界となり、その奥を見通すことができない。彼らは境界面の向こうからやってきて、しばらく陸地に滞在し、そしてまた水域へと戻っていく。その「水辺」を挟んで行き来する過程は、著者が幾つかの作品で描く境界があることを意識しつつ、その境界を超己しようとする主人公を連想させる。
しかし、著者は安易なファンタジーへと落ち入ってはいかない。全人的にその「境界」へ没入することはなく、そこにある事象に対し主観的な視線とは別に客観的な視座を保つ。単純に科学的姿勢と言ってしまって構わないと思うけど、その視界と「物語」という梨木世界の視界という2つの領域の境界でも、やはり著者は行きつ戻りつしている。その揺らぎとバランス感覚はやはり著作にも共通して垣間見えている。境界を越えつつも、もう片方の領域を振り切ったりはしない。
これからも著者は境界に留まり、その周辺に活動域を持ち続けるのだろう。