■三菱一号館美術館のヴァロットン展。「冷たい炎」とかコピーがついていてちょっと気になっていたのでした。裸婦と風景画が大部を占めているのですが、風景画には穏やかなものを感じるのに対して、裸婦画は硬質で、作品によっては死体のようにも見える、禁欲的な印象を受けるのが確かに特徴的でした。メイプルソープのモノクロ写真に裸体を大理石の塊のように撮ったものがあるのですが、それと似た印象もうけます。裸体の生々しさを抑圧して、そのフォルムやマチエルを描くことだけに注力しているかのような。
ところでこの展覧会で気になっていた作品があって、《ボール》というタイトルの作品ですが人によっては不穏なものを感じるようです。HPの画像を見てもそんな印象は受けないので、実物を観てみたかったのですが、実物を見てもやっぱり不穏な感じはしません。ボールを追いかける少女を追いかけるような影の配置や、遠くに見える婦人の存在が不穏さの理由のようなのですが、やっぱりあんまりそんな感じはしません。不穏というのであれば《貞節なシュザンヌ》や《夕食、ランプの光》にあるディスコミュニケーションさが気になります。特に《夕食、ランプの光》では食卓を囲む4名の目線が微妙に合いません。画面手前のシルエットは画家自身とされますが、その正面に位置する娘の目線は画家というよりは、その背後にいる、作品を鑑賞している観客に向けられているようです。シルエットになっている画家の姿は、ランプに照らされた食卓の周辺とは切り離され、疎外感を強く感じます。
面白いのは風景画や静物画の明度、彩度の高さです。初期の風景画は色彩の構成が気持ちよいパターンを作り、観ていてすがすがしく、後期の静物画ではうってかわって写実的な描写が目立ちます。その写実性が人物画にでていても良いと思うのですが、そうはならず、画面を構成するフォルムの一つように扱われているように思います。面白かったのは動物と裸婦の組み合わせで、動物のほうは写実的に、あるいは明るく描かれているのに裸婦のほうは動物ほど描きこまれていないように見えることです。人間関係の希薄さ、というより、人物に対して突き放したポジションを取っているような、そんな印象が残りました。