■恵比寿の東京都写真美術館は久しぶりに訪れた気がする。昨年末から始まっていた「日本の新進作家展」とメディアアート系の映像をめぐる冒険「見えない世界の見つめ方」会期終了間際に行くことができた。映像をめぐる冒険、は日常目にすることのできない世界のビジュアライゼーションを扱っていて、会場入り口にあるのは顕微鏡写真とアポロ計画で撮影された写真の対比からはじまるが、ダブルネガティブ・アーキテクチャやオーサグラフなどのメディアアート系の展示はICCなどですでに目にしているもの(ただし、たしかに作品はよりこなれたツールになっていたが)で特に目新しいものでないのは少し淋しい。後追いしている感じがする。
面白かったのは「日本の新進作家展」で西野壮平のランドスケープを各々の場所を撮影した個別の写真を張り合わせたコラージュで再構成した作品は、地図と風景写真の対応をフラットに展開してみせているわけで、写真が持つロケーション情報をビジュアライゼーションする一手法と看做すこともできる。
北野謙の写したポートレイト写真は実際には数多くの人々のポートレイトを重ね合わせたがための「平均顔」で、朧に見えて存在感が薄い。その印象はどこかでよく見ているように思うが、しかし実際にそうした顔立ちの人はいないだろう、という妙な感覚がある。「平均顔」は没個性化されたアバターとして、街角の背景の一部となった人々の姿の象徴として見る人に対峙する。だが、その没個性化されたポートレイトはそれを見る一人ひとりの別の姿でもある。
春木麻衣子が写す人々の姿もどこか弱弱しい。重い圧力の下で左右に分かれていく人々、長時間露光で足元だけが写ったゴーストのような人々の姿、真っ白に飛んだハイキーの画像の中でほんの少しだけ姿を見せる人の姿。強い存在感を持って「そこにいる」はずの人の姿はなく、漂白された風景の中へ溶けてく姿が写される。ただ、その姿はどこかユーモラスだ。世界に対し力強く存在を宣言するようなことはないかもしれないが、しかしユーモラスではある。それだけで、ただそれだけのことで見ていると気持ちが軽くなる。そうした力をもった写真だった。