■個人の意識をチップに移して、サイボーグではない生体にチップをインストールする。その極端な様態は『攻殻機動隊』の電脳描写以上にラディカルで、アーティフィカル/ナチュラルの価値観は逆転しているように見える。「肉体」は使い捨てであり、転写可能な記録チップこそが個人なのだ。そんな世界で特殊戦闘員〈エンヴォイ〉としての特性を身に着けたタケシ・コヴァックは裕福な依頼人から自分が殺された理由を調べてほしいと告げられる。
意識が転写可能で、幾らでもクローン体にインストール可能な状態になっている、という設定はジョン・ヴァーリィの『へびつかい座ホットライン』の冒頭部分がそうではなかったか。個人の意識がリストア可能な状態であるが、その「意識」は常時バックアップされているわけではなく一定のインターバルがある、という状況での「殺人」なのだけど、『へびつかい座』を知っているのですぐに核心部は解ってしまう。個人が再生可能な状態にある状況下では「死」という概念は完全に抽象化してしまう。
ただ、核心部は解るのだけど、その事件に関わった人々の心の動きまではわからない。例え人々の意識がチップ化されていたとしても、心の機微は変わらないものとして描かれる。
ヴァーリーやその後のサイバーパンク作品、特にブルース・スターリングあたりならテクノロジーによってむしろ人間性が変容してしまう様を積極的に描いただろうと思う。そして、そうした作品を読み育った自分がこの作品を読むと、コヴァックが「自殺/他殺」という「古臭い」事象にこだわることが奇異に思える。
「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか」は映画『イノセンス』のエピグラフにも捧げられた、リラダン『未来のイブ』にある一節だが、ここには端的に世界観が「人間性」を左右している様が現れている。
登場人物たちがどうしようもなく読者の同時代人なのだ。
だから逆に、自分はSFとしてではなく、オーソドックスなハードボイルドとして読んだ。そういうフォーマットからすればコヴァック達はとても生き生きとしている。読んでいてちょっと無骨なおっさんという風貌が浮かんで仕方なかったコヴァックという人物像だが、表紙見返しにある著者近影を見て笑ってしまった。想像していたコヴァック(ただし、借り物のスリーブとしての姿ではなく、オリジナルとしての)を彷彿とさせたからだ。
コヴァックの相方をつとめるヒロインはオルテガ姓を名乗り、おそらくラテン系で、著者の奥方はスペイン人なのだという。本書の中でコヴァックとオルテガは互いのフェロモンの相性で非常に親密になるのだが、著者のバックボーンを知ってしまうともう苦笑するほか無い。
殺戮をいとわないダーティな側面を持つコヴァックを主人公に据えて、しかし後味が悪くないのは、彼の暴力が自分の利益のために行われているわけではないことと、自らの業を自覚しつつ何か善いことを為して、まだこの世に善があることを信じようとしているからだろう。非常に突き放してみれば、コヴァックのその行いは偽善だ。ただ、彼はその偽善も自覚している。