■昨年の8月に広島市現代美術館を訪れた時は、もう当分ここに再び来ることはないだろうなと思っていた。ところが6月から山口に常駐状態となり、そうなると広島への移動コストは大した問題にはならなくなった。何しろ昨年頻繁に訪ねた南伊勢の現美に比べても安いし、時間もかからない。折りしも広島現美では昨年森美のターナー展で見たマーティン・クリードの個展が開かれたばかりだった。昨年の広島は時間に追われてあまりのんびりと観れたような感じではなかったし、今度は気ままに観に行こうと思った。

山口から広島への移動は「広島シティ☆カジュアルきっぷ」を利用した。9:30頃に広島着。復路の切符が周遊券扱いになるのだけど、自動改札で回収されたりすると嫌なので、広島駅の改札窓口で訊いてみた。
「自動改札で回収されたりしませんよね」
「うーん……」
「ま、まあ、駅員さんのいる窓口通れば大丈夫っすね」
「まあ、そうっすね」
「あははは」
「あははは」
大丈夫かいな、と思いつつもまずは美術館へ。広島県はPASPYという県内で通用する交通系ICカードを扱っているのだけど、売っている場所が良くわからない。広電の広島駅ターミナルに販売所を見つけたのだけど、これの営業開始が10:30からなのだった。意外とのんびりしているんだな。
ICカードはあきらめて、現金払いで比治山下へ。

昨年は降りる駅を間違えて、裏からアプローチしたのだけど、今回は表から。それで気がついたのだけど、美術館に登る道には男坂と女坂(そういう名前ではなかったが)があるのだった。どういう美術館だ。
昨年の「ヒロシマ」企画はとても重たかったのだけど、今回のマーティン・クリードは「普通」といえば普通の現美展。例の「展示室の部屋の明かりが点いたり消えたりする」作品もありました。なんでもない壁や、床のカーペット、建材、といったものを題材に作られた作品は展示室そのものを飾ろうとしているようにも見えて面白かった。そうではないドローイングやビデオインスタレーションもあるんですが、なんとなく全体的に人を喰った系。

展示室そのものを素材にしているのが面白いなあと思ったのは、普段美術館に行っても、展示室そのものは意識しないから。〈ホワイトキューブ〉の別名通り、白い部屋、というだけで、まあ、良く見ると壁は穴の補修跡(展示室の壁って結構酷使されているような気がする)だらけだったりするんだけど、でも部屋はあまり意識されない。美術館というものが成立した当時は個人の邸宅だったりして部屋そのものが装飾されていたそうで、ただ、それだと作品は部屋の装飾のようになってしまうから、ということでホワイトキューブ化したそうなのだけど、「明かりが点いたり消えたり」はそうした無個性化した展示室の逆襲みたいなものかもしれない。「ここにあるんだ」と。
そうした「展示室の主張」系だと、壁の内側から何か球形のものが出てこようとしているように壁紙を半球状に変形させた作品とか、あるいは額装された白い紙に「壁の中に何かある」(みたいな)キャプションだけ付けられた作品があった。壁紙を変形させた作品は、半球が1つのものと、2つ並んだ作品があって、たまたま訪れていた子供が「おっぱい」とか叫んでいた。念のため書いておくと、形状パターンとしては近いかもしれませんが、それほど写実的ではありません。

前回は気がつかなかったのですが、広島現美は音がやたらと響きます。1F展示室の片隅にメトロノームを7つほど並べた作品があるのですが、展示スペースのどこに行ってもその音が聞こえていました。それもあらぬ方向から聴こえるので驚いたのですが、音が漏れるように広がっているのではなく、壁に反射しまくっているみたいですね。ただ、そのテンポを刻む音が聞こえる場所にクリードの未発表インタビューから抜粋したキャプションがあって、「発展したり進行しているのを見るのがすき」みたいなことが書いてあって、そういうことなのかと妙に腑に落ちました。意図したものではないと思うのですが、効果的でした。
常設展示はモニュメント的な作品の展示。入り口は公共空間でよく見かけるようななんか良くわからないモニュメントのようなものがあって、先に進んでいくとランドアートとか、ジム・ダインの作品とか、だんだん公共空間では見かけない雰囲気になっていく。最後の小沢剛の〈ホワイトアウト〉では、美術館所蔵作品のいくつかを並べた部屋を白い布団の綿のようなもので埋めて、雪原のようにしている。
作品を裸で見るのとは違い、小沢の作ったコンテキストの中に入ることで個々の作品がまとまった景観になってしまうのだけど、これもクリードの「明かりが点いたり消えたり」と同じ、展示室そのものの逆襲みたいなものなのかもしれない。作品に偏ったコンテキストを与えない、という意味でのホワイトキューブなわけで、コンテキストが強すぎると個々の作品が見えなくなってしまう。
でも、まあ、横浜のZAIMやらBankartNYKやらで製作された作品のように、展示室に合わせて作られた面白い作品というのもあるわけで、どのやり方が一番、というものではないのでしょうね。