■東京オペラシティーアートギャラリーでの展示。「梅佳代」といったら「ああいう写真」というひとつのカテゴリになっている感じがするけど、こういう写真しか撮れなくなっているのかな、という気もする。
面白かったのは路上で転がって遊ぶ小学生の横を脇目も振らずに深刻そうな顔したサラリーマンが歩くスナップで、サラリーマンと小学生のギャップも面白いのだけどそのサラリーマンが手にする鞄もファスナーが開いて中身が零れ落ちそうなのが可笑しい。徹頭徹尾緩い。
最初の展示室でスカートをめくって下着をむき出しにしている女子中学生の巨大な写真で驚く。バカだなー、と率直に思うのだけど、正直、そういうのはもういいよ、とも思う。食傷気味なのだ。
剽軽な小学生たち、市井の人々の微笑ましい姿も、確かに楽しい。それも人が持つ自然の姿であって、その意味ではヌード写真と似ている。性的な連想が働くかどうかの違いだけだ。ただ、なんとなく、それが「梅佳代」ブランドであって、もう驚くことはないのだろうなとも思う。この展覧会に連動して、FM番組でインタビューもあって、紙媒体で目にした対談と同様、ごくごく自然に撮れる、そういう目線で街を歩いているのだろうということが伝わっていた。
でも、それで展覧会を続けていくのは大変なのではないかとも思う。作為の入り込む余地がほとんど無い分、そちらへのふり幅は少ないだろうから、だんだんと過去の作品との類似性が強く意識されていくだろう。
それにしても、日常を切り取っているはずの梅佳代作品でも、それほど日常というわけでもなさそうで、展覧会全体として見えてくる景色が混沌としていて、何が起きているのか良く解らなくなっている。どこか可笑しみを含んでいるということを除けば、何かが起きているけどそれが何かが解らない、という点では志賀理江子の内面を覗き込むような写真作品群と似ている。
志賀理江子の写真はセットアップされた、絵作りが十分にコントロールされている作品で、その点では梅佳代作品とは真逆だけど、日常と非日常の曖昧な狭間を切り取っているところはよく似ている。日常は数多くのルーチンから成り立っているけど、梅佳代はそのルーチンが積み重なる連鎖の外に片足を置いているように思う。