■東京都現代美術館の企画展。MOTサイトのフライヤービジュアルはファッションショーのようで、昨年度あちこちで眼にしたアパレル系デザインの展示なのかと思っていた。附けられた副題も「ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」であることだし。チャラヤンは服飾デザイナーとしてキャリアをスタートしているので、「また」ファッション系の企画展、という感想は間違いではないのだと思う。
ただ、単に着飾るデザインだけではないのが、このデザイナー/アーティストの特徴で、ちょっと変わったものを観させてもらったと感じた。服飾デザインを手段として思想を語る、というのはユニークだと思う。
大学の卒業制作として制作したという、数ヶ月土中に埋めたシルクのドレス『逸脱した流れ』は、アウトラインこそドレスの面影を残しているが、表面は土くれのようなもので覆われ、シルクの光沢はもう見えない。文字通り「土着」のドレスは、「現在」ではなく過去へ、自身への起源への眼差しを感じさせる。
その眼差しはおそらく、キプロスという政治的にも歴史的にも複雑な履歴を持つ土地の生まれによるものなのだろう。
「服飾を使ってなんらかの思想を語る」特徴を持った作品は、『パノラマ』や『アフターワーズ』の作品紹介文から伺えるものの、ファッションショーというパフォーマンスを抜きにして静止展示(『アフターワーズ』はビデオ展示だったが)になってしまった時点で、今ひとつ伝わらない。解説文を通して逆に作品が腑に落ちるような状態で、ただこれは観に行った自分が消化不良を起こしただけだったのかもしれない。
作品そのもの(あるいは展示そのもの)が解りやすく語りかけてきたのは『不在の存在』や『アンビモルファス』。『不在の存在』は着衣から採取された生物痕からDNAを抽出し、そこから持ち主のプロフィールを演繹する研究者の姿を描いている。ただ、DNAから持ち主の容姿やライフヒストリーや生活姿勢を求めるというのは乱暴な話で、オチははじめから見えているのだけど、そのオチに使われるのが「歪んだ着衣」というのが面白かった。あくまでもチャラヤンは「被服」にこだわっていて、被服を通じて何事かを語ろうとする。
『アンビモルファス』は過剰な装飾を持つ民族衣装からシンプルな現在のモードへメタモルフォーゼさせていくパフォーマンス(要するにファッションショー)だったらしい。展示は写真のみ。
逆に意外とつまらなかったのはレーザー発振器を組み込まれたドレス『リーディング』で、たしかにきらびやかだし、〈縫付け系〉デバイスではあったけれど、派手なディスプレイという印象は拭えず。生身の人が着て動いていたら、それは『電気服』(田中敦子)の系譜のように見えたかもしれない。マネキンが着てしまうと、どうしても百貨店のディスプレイのように見えてしまう。
違った意味でちょっと困ったのは『ブラインドスケープ』で、そのコンセプトはともかく、片膝立てて座り、オリーブに水をやるマネキンが下着を着けていないので、どうしても股間に視線が誘導されてしまうのだった。会場監視係の人(女性)もそうだったらしいので、安心した。マネキンなので誘導されたところで何が見えるわけでもないのだけど。実際のショーでも同様だったのだろうか(そんなわけはないだろう)。
同時展示のコレクション展は〈Plastic Memories〉。「記憶」をキーにMOTのコレクションを展示している。ただ、単なる「追憶」ではなく、記憶のメカニズムを浮かび上がらせようとしている点が面白い。偽の記憶、偽のプロフィールを来場者に想起させる。クリスチャン・ボルタンスキー『死んだスイス人の資料』は使われた素材とは異なるコンテキストを連想させる。木村友紀『YOU MAY ATTEND A PARTY WHERE STRANGE CUSTOMS PREVAIL』は全く別々の場所で購入された、「同一と思われる」人物が写りこんでいる写真を組合せ、架空のアルバムを構築してしまっている。何も知らずに展示ブースに入ると、誰かある人物の思い出を見せられているかのように思うが、その印象はモンタージュされたものでしかない。
絶対的な「記憶」が刻み込まれたメディウムは存在せず、全ては受け手側で連想されたイメージからモンタージュされたコンテキストとしてしか「記憶」は伝わらない。
他には米田知子や石内都などの写真もあって、こちらは他所でも目にしていてもうおなじみ。さすがに「記憶に新しい」