■豊田市美術館で新しい企画展が7月から始まった。「Blooming/ブラジル - 日本/君のいるところ」展で、ブラジル現代美術の展示となる。なぜ、ブラジル? という疑問はあるけれど(なんとなく見当はついたけれど)、日程の調整も良かったので初日に見に行くことができました。
名鉄を使って知立で乗り換え豊田市駅へ。知立近辺がすでにそうなのですが、周囲は青田が平地一面に広がり、民家が散在し、遠くに高速の高架が突っ切るのが見えるという、要するに地方都市のさらに外縁部という感じ。神奈川県で言えば小田急の東海大学駅から小田原駅にかけての景色になんとなく似ています。
電車は1時間に4本。2両編成。単線。いかにも田園を走るローカル線という風情なんですが、なんとなくラテン系の人をよく見かけます。ラテン系というか、地中海系の顔立ちと言った方が正しいのかな。
豊田市駅で降りると、ティッシュ配りをしているおじさんがいたのですが、彼がまた濃い目の顔立ち。美術館まで通りを歩いていると、日本人よりも日本人ではなさそうな子供が目立ちました。もっとも日本人は車で移動ばかりしているから通りにはいなかったのかもしれませんが。
「Blooming/ブラジル-日本/君のいるところ」展は移民百周年にあたる2008年に、日本で最も多くのブラジル人が住む愛知県で、ブラジルに関わる現代作家作品を紹介(パンフより)している。ブラジル人が多いのは工場もあるし、最近は農業に携わる人も増えているのだそうです(こちらのローカルニュースでやってた)。
展示作品の中では、作品目録が無いのでうろ覚えですが、漆器の箔技法を思わせる《風の吹くところ》(だったか)が黒と金、展示スペースの壁の白の色の対比が美しくて印象に残っています。《あなたの点けられる明かりの全て》(だったか)や、テキスタイルパターン2種《Blooming》《Bath》もそうなんですが、展示ブースそのものを作品にしたものが目だったような気がします。ああいう作品は展示が終わったらどうするんだろう。かなり巨大なんですが。
行った日は初日ということもあってか、作家自身による解説という企画がありました。折角だから、というかそれが目当てということもあって拝聴することに。
島袋道浩、アナ・マリア・タヴァレス、エルネスト・ネトの3名で通訳つき。タヴァレス氏はポルトガル語、ネト氏は英語、島袋氏は日本語。ネト氏と島袋氏はしゃべり慣れている感じでした。ただ、企画自体はあまりうまく行っていなかったような気もします。作家自身による解説、という場は初めてだったのですが、他でも同じような形式なのかしらん。
アナ・マリア・タヴァレス氏は《ビクトリア・ヘイジュアン》という豊美の前庭にある池に大蓮の模型を浮かべる作品を制作されたのですが、見る角度で色を変える素材について盛んに語るのが印象的でした。ただ、ハイテク素材そのものは、言ってしまってはなんですが、珍しくはないんですよね。作品そのものは詩的でした。夏の日差しの中で見るよりは月夜に見たいものだと思いましたが。
トークの中では「未来的なものは予見しやすい」と語られていたのが印象的でした。
エルネスト・ネト氏は、あー、完璧にタイトル忘れましたが、6本のアーチを立てた上体で円状に配置してお椀を伏せた構造を作り、アーチのによって作られた空間の内側と外側にストッキングのような布をテンションをかけて覆い、どことなく生物を思わせる3メートル程の高さの構造物を展示していました。
かなりエネルギッシュに語る人でしたが、今ひとつ盛り上がりに欠けた聴衆を巻き込もうとしていたのかもしれません。「人間のための場所を造りたいと考えている」「呼吸するように人で出会う場所を造る」と語られていたのが印象的。
島袋道浩氏は「非物質的なところでシアワセになる方法を」求めているそうで、ブラジルにいったらそこはデフォルトで人がニコニコしているので作れなくなったとか。ビデオ作品を制作する上で、音楽に映像を付けるのではなく、映像やコンセプトに合わせて音楽を作るということをやった、とか。
ただ、ビデオ作品は、どのような製作過程であったとしても、最終的な完成形でのみ観客に提示されるから、制作過程の珍しさというのは落ちてしまうと思いました。
北海道にタコを取りにいったビデオをブラジルのペペンチスタ(吟遊詩人)に見せて即興で音を作ってもらったそうで、そのペペンチスタのパフォーマンスは見事でした。
この解説企画の中で質疑応答の時間があり、その中である方が「現代美術作品の正しい見方を教えてくれ」という意味の質問をされていたのですが、島袋氏がその質問に対して間接的に「現代美術は未知なものと出会う訓練の場だ」と話されていたのが印象に残っています。正しい見方、見る上での心構えについて質問された方は、現代美術を既存のスキームに当てはめて受け入れようとしていたのだと思うのですが、そうではなく、未知なものの存在をあるがままで受け入れられるようにする、そういう受容体を作る効果が現代美術にはあるのかもしれません。
もちろん、この展示会についていえば、その「未知なるもの」は「隣のブラジル人」であり、それこそが豊美で行われた理由となっているはずです。