■年度が改まって最初の横浜美術館企画展は「熱々東南アジアの現代美術」 アジア美術というと福岡のアジア美術館を連想するけど、この企画には絡んでいないようす。〈東南アジア〉ということで作家の出身はマレーシア、フィリピン、シンガポールが中心で構成されているのですが、幾つかの作品では少数民族のアイデンティティを扱っていて、国境線だけで分類されるほど単純な世界でないことを伺わせる。海上を移動し、地上に定住することをしない文字通り〈寄る辺ない〉一族など興味深い。
たださすがに文化的背景を殆ど知らないので、一見しただけでは何をテーマにしたものか見当もつかないものが多く、キャプション頼りになってしまった。その一方でキャプション抜きでもわかるものがあり、その違いも面白い。「文化的背景」なるものはミルフィーユのように薄皮が積みあがっていて、そのうち幾つかは他の地域と共通しているし、幾つかのものは共有されていない。このコンテキストの相違は、中途半端なだけに始末に負えないのかもしれない。理解できると思える部分は、実はそうではなく、全く違う解釈をしてしまっているだけかもしれない。
そうした微妙に通じる作品は、手法は見慣れているのだけど、扱っている題材がローカルなもの。古い歴史的写真に現代の人物をコラージュさせる「フォレストガンプ」のような手法は珍しくはないが、そこに使われている写真そのものには馴染みがない。そこに込められた意図が肯定的なものなのか、否定的なものなのか、そのまで立ち入ることができないので作品に対しては常に距離を感じつつ相対することになる。
その意味で「世界標準」と題された作品が展示されていたのは象徴的かもしれない。
作家は「世界標準」を否定的な意図をもって扱っていることは伝わってくるのだけど、では作家の出身国とは異なる日本で展示されているこの作品は何なのか。異なる文化的背景を持つ観客にその意味が伝わっているという点で、その作品は「世界標準」のはずだ。作家は明らかに「世界標準」という言葉を軽く扱いすぎている。批判されるべきは「世界標準」ではなく、その言葉が使われるコンテキストであるはずなのに。
平行して公開されている常設は最近寄贈を受けた「上田コレクション」からの現代美術作品展示。個人コレクションということで、なんとなく傾向が似ている。コレクションの中心になっているのは日本画出身の現代美術作品となっていて、今年度の横浜美術館の現代美術企画は今回の『東南アジアの現代美術』のみになっているところを補う感じに。展示室も従来のシュルレアリズムの部屋も日本画の部屋も全部上田コレクションに使われていてずいぶん大がかり。
写真作品の展示室は従来通りで、今回は荒木経惟の「横浜美人100名の顔」 同じ顔は二つとなく、似ている言えば似ているし、似ていないといえば似ていない。その微妙な似通い方が企画展の東南アジア美術に感じた距離感を連想させました。