■年の瀬も近くなった頃、鎌倉へ。神奈川近代美術館で昨年の横トリでいっぺんにファンになってしまった内藤礼の個展が開催されているので。神近美で現美というと葉山館という印象もあったのですが、葉山よりは鎌倉の方が便はいい。横浜に戻るタイミングに合わせて観に行きました。
鎌倉は夏ごろにバイクで行った気がするんですが、今回は電車で。久しぶりなのでわざわざ大船からはロープウェイで江ノ島に寄り道したりして。
「地上はどんなところだったか」
最初の展示室で出迎えられるのが、暗い回廊。ガラス張りの展示スペース内に暖かい光を放つ豆球の輪が並ぶ。その光の輪に照らされているのは花柄などの穏やかなテキスタイル。
〈地上はどんなところだったか〉
そこは決して穏やかなわけではなく、調和が取れているわけではなく、争いがなかったわけでもない。
そしてまた、その問いが発せられるこの空間は、〈地上〉ではない。ここは謂わば死者の世界。来館者はこの暗い展示室から明るい表に出て〈再生〉される。
「地上はどんなところだったか〈母型〉」「恩寵」
〈恩寵〉とは、神が全ての人々に与える良いこと、である。「地上はどんなところだったか〈母型〉」は、緑色の紙が敷かれたスペースであり、その隅に、ひっそりと〈恩寵〉は顕れる。恵みは大々的に与えられるものではなく、密かにこの世界に侵入してくる。
「精霊」
2階の回廊から中庭を見るとたゆとう2本のリボンが目に入る。空気の流れを受けて形を変えるその形に何者かの気配を読みとる。あるいは、壁の穴からこちらを見ている2つの存在のような。
内藤の世界は美術館を取り巻く自然とつながっているように思える。2本のリボンは、例えばギリシャ神話におけるエリアルのようなものかもしれない。
「恩寵」
そして精霊を先触れとして、美術館1Fのオープンエリアに〈侵入〉が起こる。「恩寵」という言葉はキリスト教のものだが、ここで提示されるものはずっとアニミズム的な、自然に親和したもののように感じる。
この企画展のタイトル「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」というバタイユの言葉は、この世界は生命に満ちあふれていることを示している。ちょうど「無題」と題された、口いっぱいまで水で満たされたガラス瓶のように、この世界は生命に満ちている。そのアニミズム的世界観の展示は、鎌倉の自然に取り囲まれたこの美術館にふさわしい。
そして最後に再び「地上はどんなところだったのか」を観る。そこが死後の空間であるのは今や確かなように思われ、そして、来館者が最初にこの空間を通る意味が分かる。ここを通り抜け、明るい中庭に出ることは、すなわち死と再生なのだと。そして、自分がいるのが、観光でにぎわう地方の街ではなく、自然が多く残った鎌倉にいることに気がつくのだ。