■昨年の暮れに都写美の3企画展を見に行きました。最初に写真展を見に行ったときはなんだかピンと来なかったものですが、最近は観る取っ掛かりができてきたような感じがしています。自分なりの観方ができるようになってきたように思います。数多く接しているとそれなりに体系的なものができてきて、その体系に沿った観方というか、受け取り方のフレームができあがってきたような感じです。
観た、というか梯子したのは「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」「路上から世界を変えていく」「高谷史郎 明るい部屋」の3企画。
「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」はどちらも楽しんで写真を撮っている感じが伝わってくる。「植田正治」は生誕100周年ということであちこちで企画が組まれていましたが、都写美の展示はジャック・アンリ・ラルティーグをリファレンスとしてその作品を比較展示するというもの。題材や視線は確かに似通ったものを感じましたが植田の作品が演出写真として、幾何的な構図を持っているの対してラルティーグの作品では演出はなく、構図もずっとゆるい感じでした。
植田の写真はそれはそれで、どことなくマグリットの絵画のような面白さがあるのですが、リラックスして観れるのはラルティーグの写真です。写真を楽しんで撮っている感じがストレートに出ているように思います。それはもちろん良し悪しではなく、植田の構図を作り上げたセットアップ写真にはそうした手法を取らなければ作れない世界があり、その一方でラルティーグのように撮らなければ写しこめない空気というものがある。それは排他的な関係にあるように思います。
続いて観た「路上から世界を変えていく」は新進写真家としてノミネートされた5人のグループ展。セットアップ写真が多く、「あるがままを撮る」リアリズムではなく写真という手段を使って映像作品を作っている、という言い方が適切に思えます。植田の「演出写真」の延長にあると言えるでしょう。ただ、植田の作品はあくまでも絵画的な世界を写真を通して作ろうとしているように見えるのに対して、大森克己のサクラ色のハレーションを写しこんだ作品にしろ、林ナツミの浮遊作品にしろ、セットアップによって作られた一連の写真を通して、写真には写りこまない、言ってしまえば精神的な世界観を作り出そうとしているように見えます。写真という技術を使い、現実とは違うリアリティを持たせた世界を作っているように思いました。