■6月の都現美は名和晃平のシンセシス。PixCellシリーズのきらきら光るビーズに包まれた鹿が強烈な印象を自分の中に残している。作っている作品はインスタレーションや彫像作品という分類になるとは思うのだけど、造形物を作ることを目的としているというよりは、作品を前にして感じることは、視覚やそのメカニズムを通して認識される自意識そのものに興味が向いていくということだ。「視る」ということ。それを脳が認知した結果として「視た」と認識すること。シンセシスの会場にいると、自分の視覚認識のメカニズムが擾乱されたように感じる。
開催初日に都現美へ行きたかったのですが、大雨だったので翌日に。東京駅丸の内北口2番バス停から東京都現代美術館経由錦糸町駅行き10:36の便に乗って美術館前へ。たぶん、横浜方面からだと、このルートが一番安くて簡単だと思う。ただ、バスは本数が少ないのでタイミングを誤るとだいぶ待たされる。
「シンセシス」の最初はPixCell。フレネルプリズムのパネルで作られた箱に収められたオブジェクトは「そこ」にあるのに、視ることができない。オブジェクトの正面に立つと何も見えないか、あるいは幻のように浮かび上がるだけ。視線に介在するフィルタの存在が視覚を擾乱する。実物が目の前にあるはずなのに、その存在がリアルに感じられない。リアルなオブジェクトが幻になる。しかし、リアルだ幻だと認識しているのは脳であって、作品のメカニズムが幻にしてしまうわけではない。脳が「幻と感じる」メカニズムを利用して作品を作っている、とも言える。
ビーズにつつまれた鹿のビジュアルイメージ(〈BEADS〉)は、個人的には作家のトーテムになっている。同じ鹿を使って無骨な拘束具に保持された作品を使った小谷元彦とどこかでかぶるのだけど、小谷がオブジェクトが持つダブルイメージを表出させているのに対して、名和晃平は視ている側の認知メカニズムを意識させるように思う。
ダブルイメージと言えば印象的だったのは〈POLYGON〉で、ポリゴンモデルとリアルなモデルの二つの像が対峙し、あるいはダブった二重像として作られる。強い印象を残すのは、地に脚を付けているのはポリゴン像であり、リアルな像はポリゴンに憑依しているように見える。単純化されたポリゴンは物理的にリアルなボディの象徴であり、そこに憑依する〈リアル〉なボディは、我々の内面にもつセルフイメージを形にしたようだ。
あるいは、ポリゴンから連想されるデジタルデータによるセルフイメージに従来のセルフイメージが侵食されている状況を描いているのかもしれない。
同時期開催していたのは東京ワンダーウォールの絵画作品展示、常設展時は石田尚志特集や「物語」をテーマにした展示。こないだまでの広島市現代美術館の常設での「ことばの窓、イメージの扉」とかぶるけど、東京の方は密度が低い。「物語」を見出してしまうのは何事にも因果を見つけ出そうとする心理メカニズムによるものと思うけど、もともと強い物語を背負ってるヒロシマに比べると、東京はその点が弱い。様々なものが入り込んだ結果として、土着の物語が弱くなっている土地なのだろうと思う。