■今年の春から初夏にかけて週末はたいていが荒天で、「行楽日和」というのは希だった。その希な5月の日をついてスクーターで箱根へ。先日メンテナンスしたばかりで調子はいい。国道一号をひた走り、箱根彫刻の森美術館へ往復。燃費はリッター40kmをマークした。近所を買い物してばかりだと30km/ℓあたりがせいぜいなのだけど、長距離だと効率がいいらしい。
箱根彫刻の森美術館はその名の通り彫刻、屋外彫刻展示と箱根の山野がコンバイドされた景観が売りだけど、その一方で現代美術作品も半年で入れ替わる形で展示されている。行った時は大巻伸嗣「存在の証明展」が開催されていた。新作は闇と光に関連して2点。もう1点は再展示とのこと。
〈闇〉に関連しては'Liminal Air - Black Weitgh'。無数の黒い組みひもが垂れ下がり、遠目には黒いソリッドなブロックが中空に浮いているように見える。しかし、黒く見えるのは密集して並んだ組紐が視界を遮っているからで、決して密度は高くない。その高くない密度が面白い視覚効果を生んでいて、近寄ると焦点が合わない。もちろん一番手前の組紐は見えるけど、奥の組紐には焦点が合わない。だから、見えるようでいて見えない感覚が消えない。カプーアの〈穴〉のような錯視効果だけど、その体験は面白い。
〈光〉に関連するのは'Liminal Air Space - Time'。サンルームの中でレースの薄布が吹き上げられる空気で緩やかに舞う。それ自体は確かにきれいだし、借景となる美術館庭園の景観とのコンビネーションも面白いのだけど、たゆとうレースの薄布、というオブジェは慨視感が強くてなんとなく今ひとつ。
新作ではない、2009年に岐阜県立美術館で展示されたという'Echoes - Re-crystallization'は新作と趣が違う作品。床一面に敷き詰められた白い大理石のパネルに白の修正液で草花が描かれる。目を惹くのは大理石が割られていることで、そのことが「結晶化」されているさまを強く印象付ける。凍りついた記憶。外に出れば箱根の「生きている」草木の姿を目の当たりにできるわけで、そのコントラストが面白かった。大理石に描かれたのは今はもう絶滅した植物なのだそうだけど、それがあまりにも人工的な手法で美しく封じ込められていることと、自然というものが変化し続ける相そのものであることとの対比を思わせる。
「存在の証明展」を観たあとに彫刻の庭園を簡単に巡回。昨年都現美で観た、田窪恭治の礼拝堂インスタレーション作品が屋外に展示されていて、真っ赤に錆びていたのだけどそれはそれとして、都現美で見た時のような静かな存在感というものはあまり感じず、何かの建物が取り払われ更地にされている様子、にしか見えないというのは作品そのものとは別に面白かった。その見え方は作品の構成要素を考えれば当然と言えば当然で、作品としての存在感を出すにはそれが本来は無いはずの屋内にあればこそで、屋外に置かれると文脈が変わってしまい、何かそこにかつて建物があった、という印象から入ってしまう。置かれる場所で作品の印象がまるで変わってしまうことは他にも経験があったのだけど、〈林檎の礼拝堂〉の場合はもともとが「ある建物の存在」を意識させるだけに屋外に配置されるとドメスティックな「建物の不在」が意識されてしまう。
彫刻の森は昨年も来ていて、その時は〈林檎の礼拝堂〉は展示されていなかったはずで(いずれにしても最近の作品なわけで)、大して作品の入れ替わりはないだろうと思っていた彫刻の森でも、少しずつ変わっているのだなということも解りました。頻繁に来ても仕方ないと思うけど、たまに来ると面白い場所なのかもしれない。