■美術館があることは知っていたけど、京都はなんだか敬遠していた。それは多分に偏見もあるのだけど、なんとなく、古典的な、伝統的な、権威的な、そんな展覧会なのではないかと思っていた。京都だから。古都だから。ただ、今回、京都国立近代美術館のコレクション展にやなぎみわの作品が出るということを聞いて、じゃあ、観に行こうかと思った。京都なんて修学旅行以来だから、というか、それ以前に修学旅行じゃまともな京都なんて見ていないに等しい。実質初めてといったところか。
この日記は書き溜めているアーティクルを毎週公開しているので、リアルタイムではなく、京都を訪れたのは世間的には春休み最後の日曜日。京都に着いたのはお昼。京都駅の混み具合は結構なもので、コインロッカーはすべてふさがり、食べ物屋さんは満員。仕方なく、大きな荷物を肩にかけたまま、すきっ腹をかかえて地下鉄に。烏丸線に乗って、烏丸御池で東西線に乗り換え、東山駅へ。土地勘はまるでないのですが、駅に掲示されていた美術館までの順路地図を覚えて、どうにか。
着いてみたら京都国立近代美術館は入館無料の日でした。狙って行ったわけではないのですが、ラッキーでした。入ってまず眼に入ったのが、やなぎみわの「案内嬢の部屋」あるいは〈エレベーターガールハウス〉。ついフェティッシュに見てしまうのですが、そういう視線のあり方が意味しているものを端的に突きつけてくる作品です。そうは解っていてもついつい見とれてしまうわけですが。
階段を上がって最初に目に入るのはマルセル・デュシャンの「泉」。もはや古典的な作品なのではないでしょうか。男性用小便器を寝かせて置いて直接「泉」に見立てている、という見方もできるし、用を足すその行為そのものを連想させるという見方もできるでしょう。いずれにせよ、そこにはおよそ美術作品から遠いものが美術作品として提示されているという、価値観の転回があったのだ、とされます。自分はもうデュシャン以降の人間なので、それほど特には。
他には、CulturePowerでしか知らなかった作家、例えば笠原恵美子の作品などを直接目の当たりにできたのが嬉しかった。しかしまあ、笠原の〈Untitlled - Slit #3 -〉はしげしげと眺めているとなんか気恥ずかしいですね。
その他、あそこの企画展で観た、これはあちらの、これはあの時見た作品のバリエーションだ、という感じで、展示作品の厚みが大きく、まるで展覧会の集中している東京への逆襲のような印象も受けました。
ただ、その一方で、「何が展示されていないか」ということに注意を向ければ、美術館のコレクション購入予算規模というものが垣間見えるような気がして、若干の寂しさを感じないわけでもありませんでした。ただ、それは「近代美術」「現代美術」というものの曖昧さに由来するものなのかもしれません。(私にはそこまで語れません)