■新年早々こんな話ではじめるのもどうかと思うけど、最近どうも物忘れがひどくなった。何かとツマンナイことは覚えているというのに、ストンとある事物について思い出すことができない。ただそれは加齢によるものというよりは、寝不足に起因するもののようだ。たぶん。そうであってほしい。
ただ、「物忘れ」と言いつつも、実際には忘れているわけではなく、正確には「思い出すことができない」。固有名詞、特に人名についてそうした現象が起こることが多い。面白いのは、人物の顔や、付帯情報は克明に思い出せるのに、その人物名称だけが思い出せない。
先日は「竹中直人」の名前を思い出すことができなかった。
「NHKの大河ドラマで秀吉を演じた」「CMで桃井かおりと共演している」「『怒りながら笑う人』という芸を持っている」といったことは思い出せるのに、肝心の名前が出てこない。何かのクイズ状態。
結局、後で調べればいいやと一晩ぐっすり眠ったらきれいに思い出せた。
この物忘れの事例が面白かったのは、「竹中直人」というエンティティに対するプロパティとして固有名詞だけを「取り出すことができなかった」ということだ。どうでもいいことは幾らでも思い出せるのに、名前については取り出せるためのパスを失ってしまったかのようにアクセスすることができない。ただ、「名前を知っている」というステータスだけは明確に自覚していた。
自分はコンピュータが記憶するように事物を記憶しているわけではないことを、この現象は示している。他の人がどうかは知らないが、自分が人を思い出す時のキーは、イメージ記憶になっている。
それはどこかで見た顔のビジュアルイメージであったり、何かで聞いたオーラルイメージであったりする。容易に思い出せることのできた「どうでもいいこと」はそうしたキーイメージに付帯するシチュエーション情報であり、そこから連想によって引き出される関連情報からなるプロフィールだ。
このことから、固有名詞を思い出すことが難しかったことも説明できると思う。「固有名詞」はそうしたビジュアル、オーラル情報に付随して登場することがあまりなく、引き出すためのとっかかりが直接埋め込まれてはいないから。
今は「竹中直人」という名前を思い出すのに何の不自由も無いのだけれど、ただ逆に、どのようなメカニズムで記憶から言語野に引き出されるのかは分からない。人は自分で思うほど自分のことを知っているわけではない。
記憶は個々の脳細胞ではなく、細胞のネットワークによって維持されているのだという(記憶によれば)。そのネットワークは繰り返し記憶しようとする、あるいは頻繁に思い出すことによって強化されるのだろう(考えてみればそのメカニズムも不思議だ)。だとしたら、定期的に自分の記憶を棚卸しして、思い返すことを繰り返すことは「物忘れ」防止には有効なのだろうと思う。
ただ問題は、関連する付帯情報を含めて思い出すことのできなくなった記憶については、棚卸しすることはできないし、忘れていることにも気づくことはできないだろうということだ。たぶんそんな情報はかなりあるだろうし、もしかしたら、それはそれでシアワセなことなのかもしれない。