■神奈川県民ホールはしばらく改装工事をしていて閉鎖状態だったのですが、先日工事も終わり、再び開放されました。ギャラリーのこけら落としは八木良太「サイエンス/フィクション」。初期の氷で作ったレコードを再生する「Vinyl」が有名だけど、数年前の都現美ではカセットテープやビデオテープを使った作品を出していたし、最近のKAATの展示ではレコードの顕微鏡写真を加工した作品もあった。「記録媒体の物性」に関心が向いているのは一貫している。今回の神奈川県民ホールギャラリーでの展示ではそうした過去の代表作に加えて、記録媒体から少し離れ、人間の五感に働きかけ記憶を呼び覚ます作品などが展示されている。
「音」の記録は記録媒体と再生機構、そして再生された音の解釈系から成り立っている。「音」という感覚をコード化し、物質構造にトランスコードしたものが記録媒体であり、再生された音が何であるかを認識する人間がいなければ音の再生は完結しない。「誰一人聞く者のいない部屋で再生されたCDの音は存在するのか」という話に似た構造をそこに見て取ることができる。「Cecade(蝉)」という作品は天井から吊るされたイヤホンから蝉の鳴き声が流れる、というただそれだけのものだが、その場に入ると否応なく夏の情景を想起する。この場合、記録媒体は観客自身であり、作品は記録を再生させるためのキーということになる。
想い出の曲を記録したテープと、想い出そのものを同一視する表現があるが、記録媒体であるテープは「記録媒体」であって「記憶装置」ではない。記憶はあくまでも個人個人の中にあり、(この場合)テープはその記憶を呼び覚ます契機でしかない。さらに言えば、テープに記録された情報は記憶そのものですらないし、記録媒体に刻まれた物理構造そのものはまさしく単なるモノでしかない。八木の作品はそうした、いわば「身も蓋もない」構造を明らかにしようとする。ただ、自分は工学出身のためなのか、そうした構造についてはもともと自覚的で、明らかにされた構造そのものに驚きはない。それでもっ磁気テープを球体にして本来シーケンシャルアクセスする媒体をランダムアクセス可能にしてしまったり、あるいは今回初めてみた、焦点距離を何もない空間に設定したプロジェクターの前で半透明のスクリーンを持って観客が焦点距離を探る作品など、「情報」が「物理構造」の中にトランスコードされた姿を端的に見せる作品に強く惹かれる。それは純粋に工学的な興味なのかもしれないけれど。