■都現美で「パラレル・ワールド」展を観た後、地下鉄大江戸線で六本木へ。森美術館(MAM)で開催中の「アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち」展が目的。それにしても森美の入場券、別にスカイ・ビューやら展望台やらイラんのだけど。何とかは高いところが好きと言うけれど、何とかだって、年に数回通えば飽きるって。単なるソーダ水が地表面の店と比べて倍はするし。未だバブっているところだなあ。
アネット・メサジェ(Annette Messager)は1943年生まれのフランス人アーチスト。都現美の「パラレル・ワールド」展もフランスアーチスト展(というのは正しくないのだけど)だったけど、別に連携しているというわけでもないのかな。森美のアネット・メサジェ展は各国を巡回している展示で、その期間に都現美が乗っかったのか。‥‥まあ、どうでもいいか。
メサジェ展をぐるっと回ると、何か疲れました。見ているものは解るし、見せたいものもなんとなく解るのだけど、たぶん、表現方法というか、表現に至る発想のようなものがどこか異質で、その差分に疲れてしまったような。ここに来る前に都現美に寄っていたのも理由かもしれません。
入った通路ですぐに出迎えるのは、頭上に展示された鳥の剥製の群れ。ただ、その頭部は別のものにすげかえられています。その通路脇には「寄宿者たち」のシリーズですが、これらは小鳥の標本展示のようになっています。それもニットのかわいい服を被せられていたり、台に固定されていたり。カワイイのですが、グロテスク。簡単に言ってしまえば、残酷。「自然」を制御することの本質はこういうことなのかもしれません。映画『イノセンス』では生身の身体を排除していった人間が描かれていますが、それに通じるものがあるような。
メサジェは写真表現から始まった人だそうで、写真展示もありますが、こちらは逆に生身をありのままに見せる作品が多いような。身体になにやら書き付けているものもあって、たぶん筆記体の仏語で、全く持って読めないんですが、なにやら魔術的な。ただ、手とか足とかパーツをクローズアップしているんですが、それらを統合したものがないのが何だか不自然なような。
たぶん、その統合したものとしての物語が「ドレス」シリーズで、ガラスケースに収まった着衣と何かを物語る絵がセットになった作品。服から物語が逆算的に導かれるという形式は、そういえば大阪で見た塩田千春の『トラウマ』や『皮膚からの記憶』もそうだったし、ベイリーの『カエアンの聖衣』も近いかもしれない。
メサジェのスカルプチャ作品ではぬいぐるみでソフトに見せるものが多いのだけど、じっくり見ているとやっぱり重たい。食肉解体場を思わせるものがあって、窓から見える東京のランドスケープを背景に吊るされた異形のぬいぐるみ群がただぐるぐる回る作品とか、機械仕掛けで手とか頭部とかを欠損した動物のぬいぐるみがばたばた動く作品とか。あるいは送風機を使ってナイロン製と思しき袋で縫い上げた身体のパーツを膨らませたり萎ませたりして動かす作品とか。このナイロン袋のパーツにはどう見てもペニス様のものがあって、これが膨らんだり萎えたりしているもんだから笑ってしまいました。観客の誰も笑ってはいなかったのですが、やっぱり笑わないのがマナーなのかしらん。
身体のパーツを切り出してそれぞれてんでに動かすというのはまだ良しとしても、その動きがどうにも生きている感じがなく、たぶん、あえて生きているように見せていないのだとも思うのですが、その機械的な反復動作を見ているとどうしても『ロクス・ソルス』を思い出して、疲れてしまいました。自分にとってああいう生命観は理解はできるけど生理的にはなかなか受け付けられません。
「アネット・メサジェ展」を終えると、出口にMAMプロジェクト「荒木珠奈展」。展示されているのは「泉」一点ですが、蝋で作られた噴出す泉から噴出した種々の動物が底面の湖面に落ちて再び泉に同化していくサイクルで、遠めには花の咲く柳のようにも見えます。解り易い輪廻感の展示でしっくりくるというか、メサジェ展で提示される機械的な生命感でぐったり来た後にはうってつけの息抜きになりました。
帰りがけはなんだかんだ言いながらも展望台に。そこでペリエのソーダ水を頼んだのですが、これが¥800ほど。メニュー見て思わず「高っ」と呟いたら店員が苦笑しやがんの。