■『サマー・ウォーズ』を観ました。テーマはソーシャル。そのこと自体は悪い話ではなくて、要は「みんなオラに元気をわけてくれ」ということで、つまりはそういう話になっている。その「元気」の正体の重い軽いはあるにしても。「夏休み映画」として軽めに仕上げているのは意図的なものだと思いますが、「でもそれってあんまり」という箇所は多々ありました。
事件の舞台になる〈OZ〉は、そのネーミングからして魔法の世界というかファンタジー的なものを連想させて、よくあるサイバーな仮想空間モノ的なテクニカルリアルな話を遠ざけようとしたのだろうと思います。ただ、ファンタジーならファンタジーで現実から切り離していればいいのに、現実と連動させていて、社会インフラがこの〈OZ〉に乗っていることになっています。
選挙、交通、都市インフラ、緊急通報、衛星制御、何から何まで。だから、〈OZ〉がハッキングされると大混乱がおきる。
アホですか。なんで1システムに集注するようなリンケージ設計しますか。2重化も代替運転も縮退もできないような設計にしますか。
え? と思ったのは、2048バイトの暗号が最強、みたいな話が早々にあるんですが、その長さは普通だし。というか、今で言う暗号強度とは、複合にかかる時間が計算機を使っても現実的でないことが期待されることを指しているわけで、それが手計算で間に合うようじゃ、強度としてはぼろぼろです。しかも、解いて終わりということは、単体の公開鍵暗号なわけです。
それは何か違うだろう、というのはコイコイ勝負で、これは配られた手札と場に出た札、相手の出し札の傾向を読めるかどうかで、山から札を取るときに気合入れてどうなるものじゃなく、つーか、三光・青短・猪鹿蝶、とかそれ、PCゲームでよくあるイカサマじゃないですか? というか、そういうイカサマをハナから仕込んだ試合を仕掛けたんだと思ったんですが。だって、他人のアカウントを賭代に使えるような実装をしてあったとは思えず、ということは、そういう勝負ができるように実装に手を入れたはずでしょう。
アカウントを賭代に使うことを指して「命を預けるのもおなじ」みたいなセリフがあるのですが、これは映画としてのレトリックで、もちろん同じにはならない。アバターを作っているから思い入れはあるかもしれないけれど、それでも所詮はアカウントでしかない。別アカウント作ればいい。そう思うと元気玉もあんまり有難味はない。
それでも「人と人とのつながりを大事に」というおなじみのテーマは別に悪くはない。ただ、嫌らしさを感じるのは、途中、栄ばあちゃんが知り合いに電話しまくっていろいろと鼓舞する場面で、先方の状況を抜きにしてただ電話をかけているだけとして描かれるので、空回りしているように見える。なんだか、ズれているように見えてしまう。電話をかけて、その後どうなったのかについては触れていない。そもそも状況が収拾したのは、アカウントを取り返せたためであって、残念ながら電話をかけまくったからではないのだから(というか、あの映画の中で電話回線が混乱していなかったのはむしろ不思議だ)。
一人ではできないことでも大勢ならできる、というのはそれは確かにそうなんだけど、それは「元気玉」のようなものでは別に有難くはない。それは結局、「他人任せ」でしかないからだ。それでも構わない、と開き直ってしまうと全てにおいて人任せの集団ができあがることになる。そんな安易な話でもないだろう。