■名古屋市の地形というの名古屋港を中心に見ると東京湾のミニチュアのようでもある。名古屋港を奥突き当たりとして、東岸から知多半島へ向けて工業地帯が延びる。東西を裏返せば、それは京浜工業地帯に見立てることができるではないか。もちろん名古屋には皇居(旧江戸城)の代わりに名古屋城がある。南北方向はともかく東西はやたら狭いが、東京-横浜の距離20キロを半径にもつエリアを、名古屋-知多の半径5キロ圏にぎゅっと縮めた縮図がそこにあるのだ。多分。
とかいうことを思いついたのは連休に入って例によって近所を自転車であてどもなく流していたら、臨海部に出てしまったからだった。名古屋港周辺は工業地帯で、雰囲気は川崎臨海部か、横浜の本牧かとでもいった雰囲気。立ち入ったのは大江川河口部からで、三菱重工の航空宇宙なんとかかんとかの敷地に沿って北上し、東築地小前を通ってから23号線に沿って東に戻った。
帰りの堀川と山崎川に挟まれたあたりにある家並みの雰囲気が、自分が今借りている場所と比べて密度が高く、昔の雰囲気を比較的残しているのではないかと、そんなことを感じた。自分が借りている場所の周辺は、ちょっとくたびれかけた新興住宅地という雰囲気があって、遡っても1970年代ではないかと思っているのだけど、名古屋港に近い一帯は、それよりは古そうな空気だった。まあ、そりゃそうか。
写真は天白川沿いに臨海部へ向かっている途中で撮影。名鉄の本星崎駅から名四国道へ向かう途中で、場所的には工業地帯の際になる。当然生活感があまりない。
名四国道を北へ。名南橋には自転車専用道がついているのだった。この橋の左右は工場の敷地なんだけど、前方は写真でもわかるように住居地域になっている。地図で見ると、この場所は住居地域の中へ突出した工業地域の中にある。住居地域が分断されている格好になっていて、なんでそんな変な設定をかけたのかと思ったのだけど、たぶん、昔はこの大江川付近が名古屋市圏の南端だったのではないかと思う。居住地域が南進した結果、工業地域が取り残されたのではないか。役所にでも行けば裏は取れるのだろうけど、そこまではちょっと。
大江川沿いに西へ。海まで出られるかと思ったけど、そこまで道は続いていなかった。写真は名鉄常滑線の踏み切り。名鉄は客車の実験場、あるいはバージェス頁岩と呼べるのではないかと思うくらい多くのバリエーションを持った車輌が運行していて、ちょっとびっくりしたのだけど、そういう話はここではしない。
大きな工場施設が続く中、ぽつねんと取り残されている古い家屋。周囲の建物もかつてはこういうモードの建物だったのでしょう。家屋の手前側に窓がないことや、門扉が残っていることから、元々この長屋は手前側へもう少し続いていたか、大きな建物が隣接していたのではないかと思います。写真左側は切れていますが、こちらは岸壁になっていて、農林水産省の倉庫があります。
山崎川を渡って東築地町へ。堤防の向こうにカラフルな爆弾みたいなものが並んでいると思ったら、ブイでした。ここは海上保安庁の敷地。
その反対側にある孤立したような民家。左手に見えるのが母屋だと思います。洋風窓、クリームのペンキ塗り、1階の庇はおそらくトタン。ファサードにあるガラス張りの引き戸の幅が道路に面している壁の半分を占めていて、中にはカウンターがあったのではないでしょうか。たぶん、見かけほど古くはないと思うのですけど、潮風で痛みが進むのも早かったのではないかと思います。
再び名四国道沿い。見事な廃屋っぷりなんですが、地図で確認すると「竜宮荘」はこの建物より奥にあるようです。というか、どうみても「荘」が付くような規模ではないし。気になるのはこの建物に並んでいるフェンスで囲まれた土地。
瓦礫もそのままで、映画『パトレイバー1』に似たような場面があったような。側道拡張のための用地買収なのでしょう。
さらに走っていたら、突然路地裏にジャングルめいたものが。手前の真っ赤にさびた構造物とコントラストを成しているんですが、お寺のようでした。十字路の地割も妙な角度がついています。地図で確認してみるとお寺の門前町としてのデザインがされているようです。
そしてまた、突如古びたファサードが。かつては商店だったと思われますが、今は自動販売機置き場に。というか、見るべきは緑の公衆電話が実際に使われているという点でしょう。
と、まあ、こんな感じで古い名古屋の町の雰囲気のようなものを探しながら走っていたわけです。最後に一枚。
突如現れた広大な空き地。