■「アショーカは、すべてのものは生涯に最低でも五本の木を植え、その面倒をみるようにと布告した。アショーカは国民に、薬効のある木を一本、果実のなる木を一本、薪となる木を一本、家を建てるのに使う固い木を一本、花を咲かせる木を一本植えるようにと求めた。彼はそれを、『五本の木の林(パンチャヴァティ)』と呼んだ」
アショーカは古代インド・マウリア朝第三代の王で、仏教を保護したことで知られる。もともとは暴君だったが、あまりにも無残な戦争の経験から仏教に帰依した、とされる。
韓国のアーティスト崔在銀はこの伝承をもとに〈森〉のイメージを展開する。展覧会の表題作にもなった「アショカの森」は美術館に入って最初の部屋、Gallery I全体を使って構築されたインスタレーション作品。あふれる森のビジョン。ただ、残念なことに、Gallery Iの奥の窓から見える美術館の木々が貧弱なことと、部屋の奥行きが短く、オーディエンスを包み込むほどの空間にはなっていない。製作されたオブジェそのものが「床」としての構造物となっているため、視線が作品よりも窓の向こうに見える木々に向いてしまうのは演出として問題ではないかと思う。
そしてもう一つ、その床の構築に作られた部材に加工木材が使われていることも疑問で、皮をはがされた木材から連想するのはどちらかと言えば人の手で管理された資源林だ。もちろん、アショカの伝承にあるパンチャヴァティで示されている5本の木は生物資源としての木であり、その意味ではよくなぞらえられてはいるように思う。
ただ、いわゆる〈森〉と聞いてイメージする森の姿はGallary IIに展示されている「Forever and a Day」やその奥にひっそりと展示されている「Another Moon」が見せるものに近い。自分が知る森はそれすらも太古から存在するいわゆる原始林ではないが、管理の行き届いた、乾いた杉林でもない。
しかし、そのイメージとしての森をビデオインスタレーションとして見せられると自分が森からは遠いところにいると実感せざるを得ない。「森は、いつからそこにあったのでしょうか」に問われるまでもなく、森は人間社会が生まれるまえからあった。
ただ、この企画展が原美術館で行われたことは良かったのだろうと思う。Gallery Iの展示はやや残念な感じもあるが、それでも元々御殿山で私邸として設計されたこの施設はその邸内に緑多く、そこに人の手が介在していることは疑い得ないにせよ、それでも東京の土地にあって森にいくばくか近い場所にある美術館であることは確かだろう。
ただ、御殿山のバス停を通る反96を使えば六本木まで乗り換えなしでたどり着くことができる。そこにある森美術館では「ネイチャー・センス」展が開催されていて、そこでは地上から離れた高みで「ネイチャー」イメージの木霊が響く。それは出来過ぎという気もする。