■最近映画を観るたびに、途中で「この話どうやってケリつけるんだろう」みたいなことが気になってしまいます。『ノウイング』もそんな感じでした。ニコラス・ケイジを見るにつけ、モト冬樹さんを連想してしまうことも気にはなっていたのですが。……似ていると思うんですけど。眉根の皺のより具合とか。
冒頭のあたりで、決定論と非決定論の比較という大きなところから話が始まるんですが、ここで主人公のジョン(ニコラス・ケイジ)が人生観と結びつけて決定論-人生には目的があり意味がある、非決定論-人生に目的はなく、意味もない、と語ってしまいます。非決定論といっても全てが偶然で動いているわけではない(もしそうなら、そもそも「因果関係」という言葉すら生まれなかったでしょう)のですが、ジョンは最近不幸があったために、そのあたりにうまく折り合いをつけられていないようです。
50年前に災厄の日時と緯経度数値を「ささやき声」がいかにも幸薄そうな感じの少女に伝えられ、それがいろいろあってジョンの手に渡る。50年前にWGS84測地系(2004年以降)に基づく座標を伝えてどうするつもりだったんだというのはともかく、50年間で起こる災厄の預言であるわけで、それは決定・非決定という意味では、決定論宇宙にジョンがいることを意味しています。
映画としては比較的小規模の災害が預言どおり発生することを確認するように進むことで、預言の確かさを担保させつつ、見せ場を作りつつ進みますが、「災害」ということは誰かが悪いという構造を持たせられないことになります。ジョンは「人類を救うんだ」とか何とか言うんですが、それはもはや喜劇です。
誰か悪者が配置されたのであれば、その悪者を倒せば物語としては落ち着きます。しかし、映画の流れとしてはそうした落とし方はされないだろうと予感させます。ニコラス・ケイジの顔は曇りっぱなしだし、どうなってしまうんでしょう。この映画。
ありそうなオチとしては2種類あるだろうと思いました。
1)大災厄を防げなくて全滅する。「太陽系最後の日」パターン
2)「囁き」を伝えた連中が、自分たちを信用させるために災害を起こしていた。
(2)だったらその詐欺っぽい連中を倒せばめでたく終わりそうですが、いまさらそんな話に膨らませるような時間的余裕はなさそうです。
映画終盤は驚天動地の展開で、それまでの懐疑的姿勢はどっかにとんで、ジョンの友人、フィルは観測データも確認せずに聞いた話を鵜呑みにしているし、ジョンは「自分だけついでに助けて」とか言い出すし(しかし、改心したようだ)、だいぶびっくり。
面白かったのはジョンとダイアナの運命に対する姿勢で、ダイアナは非決定論的に生きているが故に希望を持つ。対して、ジョンはあくまでも預言に従おうとするわけです。冒頭部のジョンの言葉を敷衍するならば、「意味はないが希望のある人生」か「意味はあるが希望はない人生」のいずれかということになると思うのですが、もちろんディザスター映画終盤としてはそんな哲学的命題なんて数億光年の彼方です。
それにしても、いたいけない子供二人を文明的支援基盤もなさそうな所に放り出していくなんて、あの連中も底意地が悪い。つーか、あんなばかでかいもので乗り付けたくせして、キャパシティ小さいのな。