■機会を捉えて豊田市美術館へ行った。「反重力」が目当て。豊田市美術館は数年前に名古屋に常駐していた時にはよく通ったものだけど、名古屋を離れてからはぱったり。豊田市というのが名古屋駅からさらに1時間ほどの場所にあるという立地的なところは大きい。先日あいちトリエンナーレに行ったときも、豊田市は工程に入れなかった。
それでも改めて豊田市に来たのは参加作家の名に内藤礼とか、クワクボリョウタとかいった名前を見つけていたので。
名古屋から地下鉄鶴舞線を使い、赤池からさらに名鉄豊田線に入って豊田市駅へ。4,5年ぶりのはずだけど、特に何か変わったような印象はなかった。郊外型の衛星市街。駅前よりも国道沿いに重心が移っている町並み。市街の整備は進んでいるけど、人気は少なく、なんとなくうつろな通り。
でも、その状態を維持していることだけでも十分なのかもしれない。もちろんそれはトヨタのおひざ元だからということもあるのだろう。
数年前に何度も通った線路際の坂道を上って美術館に。ついぞ一度も入らなかったうなぎやもそのままだった。今回も入らなかった。いつか入ろうとは思っているけど。
「反重力」は地上の諸々を縛り付けている力とは反対の力、諸々を解放する力の象徴としてとらえられている。内藤礼の作品「母型」は、美術館3Fの大きな展示空間をいっぱいに使ったミニマルな作品。空間が大きいだけにそのミニマルさが際立つ。四方の壁に沿ってつりさげられたビーズの糸は、神奈川県立美術館の常設作品「恩寵」と同じだ。そのビーズの糸が作る「囲み」は結界であり、それに囲まれた中は聖域、境内ということになる。そして、そこを訪れる者には言葉が与えられる。
実を言えばこの作品には以前接していた。ということを「言葉」を受け取って思い出した。正直言って、その時のことはまったく覚えていない。その時は作品が形作る空間が示すものを受け取れずにいた。内藤礼の作品にはその後、横浜トリエンナーレや神奈川県立近代美術館の個展や豊島美術館で繰り返し触れることになり、ようやくいくばくかのものを受け取れられるようになったように思う。
「反重力」で展示された内藤礼の作品は大きな空間の中に小さく、ぽつんと配置されている。周囲の何もない白い壁と床と天井に囲まれた中ではとてもとてもささやかなものだ。それはこの宇宙の中にある生命の占めるサイズを思わせる。
他、クワクボリョウタの作品はいつもの影絵だが、身の回りにある安っぽい日常雑貨が生み出す幻想的な光景は「安っぽさ」という見方が一面的なものでしかないことを教えてくれる。
美術館正面の池では中谷芙二子の霧の彫刻が幻想的な景色を創り出していた。内藤礼の作品と中谷芙ニ子の作品を同時に見たのは横浜トリエンナーレだった。豊田市美術館に久しぶりに来たことも含め、さまざまなことを懐かしく思いながら、東日本大震災という重力に囚われたままのあいちトリエンナーレや六本木クロッシングに少し胸焼けしていた気持ちを解放してくれた展示だった。