■新橋から業10「スカイツリー行」を使って都現美へ行きました。新橋から出る業10は銀座・豊洲・木場・錦糸町・押上というルートを使うのだけど、都現美まではさすがに遠い。50分かかった。一番早い錦糸町から半蔵門線のルートと比べると、半分東京観光のつもりでないとちょっとしんどい。
都現美の企画展は2つ平行。フランシス・アリス展と桂ゆきの回顧展。フランシス・アリスはベルギー生まれのメキシコ在住アーティスト。ビデオ作品が多い。パフォーマンスの記録映像は単純で、記録されている行為そのものには意味がなく、しかし、そこに記録された経過は示唆に富む。非日常的な行為、たとえば氷の塊を延々と押したり、実弾を込めたベレッタをむき出しでぶら下げて街中を歩いたり、広場で羊を連れて歩いたり。
「行為」そのものの意味を問うこと自体に意味がなく、問えるのはその行為が置かれているコンテキストのみなのだけど、ついつい「行為」のみに注目しがちになる。
面白かったのは「再演」というパフォーマンスで、2つの映像から成る。1つは「現実」と題された映像で、街中のガンショップで購入したベレッタを右手に持ったまま街中を歩き、とある路地で警官に取り押さえられるもの。もうひとつは「再演」と題され、「現実」で捉えられた映像通りに歩き、同じ路地で警官に取り押さえられる。
観ていて奇妙な感覚がするのは、「再演」で取り押さえられる場所とタイミングが「現実」と同じだからだ。「再演」と言ってもそこまで同じことが繰り返されるものだろうか。
もっとも「現実」側の映像にはタイムコードがあるのに対して「再演」側にはないので編集してタイミングを合わせたのだろうと推測できる。もっとも「現実」側にしても編集されていることは解るので、そちらも実際には一発撮りの映像なのかどうかも怪しい。もしかしたら逆なのかもしれないし、「現実」も「再演」も警官のリアクションを含めてすべて仕組まれたものなのかもしれない。
映像そのものが現実をありのまま捉えているというのは半分あたっていて、半分あたっていない。映像はレンズの前で行われた「行為」を記録してはいるが、コンテキストは捉えていない。観る側が想定するコンテキストに当てはめられて映像は解釈されている。映像の虚構性はそこに由来している。
桂ゆきは戦前から高度経済成長期に活動していた美術家。ちょっとユーモラスな抽象画が多かったけど、面白かったのは立体作品で、観る場所によって変化する陰影や、リズムある反復するパターンは眺めていて飽きなかった。反面、絵画作品はテーマやメッセージが明確すぎて、それもずいぶんドメスティックな視点に固定されていて広がりを感じないのが物足りなかった。ドメスティックな視線はもちろん失うべきではないことも解るのだけど、それしかないし、ありきたりな正論しかそこにないのは正直しんどかった。
新聞朝刊に掲載されている時事漫画のような感じが否めなかった。
常設の方は〈イメージ〉の扱いをテーマにした第2部の展示が面白かった。ついこの間まで森美で公開されていた会田誠の〈戦争画リターンズ〉の2作品や大岩オスカールの幻想的な作品に再開できたのもうれしかった。世相を反映したイメージ、という意味では福島原発の事故が扱われるのは仕方ないにしても、原発事故にしか注目していないのはいったいどういうことなんだろうと思う。風間サチコの「嗚!怒涛の閉塞艦」は閉塞しているのはあなた自身が抱えている物語が閉じているからなんだけど、としか言いようがない。自分たちが抱え込んでいるコンテキストを通して現実を解釈し、そのことだけで飽和してしまって、扱いやすい物語だけを扱っている。そういう印象しか残らなかった。