■久しぶりの豊田市美術館(TMMA)。ここんところちょっとなごみに伊勢現代美術館(CAMI)界隈に良く出かけていたので、やたら近くに感じます。感じるっていうか、物理的に全然近いので実際近いんですが、最初に知立から豊田市にかけての田園風景の中を延々電車に揺られていた時はとんでもない所だと思ったものです。今は全然平気です。たかだか片道1時間だし。
今年前半のブラジル移民150周年を記念しての企画展'Blooming'が終わり、「不協和音──日本のアーティスト6人」と「ミシャ・クバル|都市のポートレート」が始まっていた。「不協和音」と常設展示3rdシーズンは10月から始まっていたんですが、「ミシャ・クバル」が11月からなので、11月頭の3連休まで待っていた。
ミシャ・クバル(1959-)(公式HP)はドイツ・デュッセルドルフを拠点とするアーティスト。都市を光でプロファイルする。認知心理学出身らしく、おそらく「視認」というプロセスに関心があり、そこを取っ掛かりにして街の見かけを解体していく。美術館ロビーに展示された『グラスを通した都市/デュッセルドルフ、モスクワ、ニューヨーク、東京、ブリスベン』や会場内の『グラスを通した都市/豊田』はガラスのコップを通して眺めた市街の景色だけど、コップに歪められ、都市景観は解らず、ただ光だけが入ってくる。都市のロケーションや都市自体が持つ光学的なコンテンツでコップを通して見えてくる光の様相は変わる。コップを通して都市景観は歪んで形を失うけれど、その光は(ほぼ)変わらない。
その視認プロセスを解体してみせる作品の極みは『ステージIII プラトンの影』だろう。「プラトンの影」はつまり、イデア論のことであり、プロジェクタで投影された画像を歪んだ銀幕によって反対側の壁に反射させている部屋の中では何もかもが茫洋として元の画像をそのままで認識することができない。
こういう風に書くとしちむずかしそうな作品のようになってしまうけど、実際には当日会場にいた小さい女の子が部屋に入るなり「わー、きれいー」と声を上げるような仕上がりです。
「不協和音」は前世紀すでに活躍していた日本人女性アーティスト、オノ・ヨーコ、草間彌生、久保田成子、斉藤陽子、塩見允枝子、田中敦子の回顧展。フロンティアに切り込んでいった6人という位置づけになるのでしょう。今でこそ現代美術は街おこしに使われてしまうまでになっていますが、前衛芸術としてメインストリームから外れたニッチでサバイブしてきた作品は、草間彌生作品はさすがに見慣れてきたのですが、凄みがあります。特に田中敦子の彩度が低めで原色でぐりぐりと円を描くドローイングは他所でも見ていますが、忘れられません。都現美(MOT)では田中の「電気服」パフォーマンスを記録した映像を常設展示していたことがありましたが、こちらではその電気服そのものが展示されました。記録映像は白黒で観た時は単なる白熱球かと思っていたのですが、展示されていた実物は白熱球に着色されていて、さらにその塗料がすでに熱でひび割れていて、暑くて重かったであろうパフォーマンスの大変が偲ばれます。
オノ・ヨーコ、久保田成子、斉藤陽子、塩見允枝子の4人はフルクサスのメンバー。塩見允枝子の作品は紛うことなくというか、解り易いダダな作品でしたがその見かけがおしゃれで、例えればクラフトエヴィング商会のエディトリアルデザインへと通じる雰囲気でした。「かわいい」作品です。
常設展示3rdシーズンでは、「内なる光」と題して近・現代絵画の展示。エゴン・シーレの『カール・グリュンバルトの肖像』が忘れられない。