■難民問題を一般化している、という観方もできるけど、姿かたちの異なる間柄であっても信頼関係は結べる、という話として受け止めることもできる。ただ、そりゃ、言わせてもらえば、エイリアンがやたら人間くさいっていうのはありますけど。あるいは、確かにそのように描くことで、紛れも無くこの作品は「人間集団」間における難民問題を一般化していると言えるのかもしれない。そしてもちろん、そんなことにはおかまいなく血なまぐさい(PG12)アクション映画として楽しむこともできます。
ヨハネスブルグに漂着したエイリアンの宇宙船。中にいたのはいわゆるボートピープルで、彼らはそのままヨハネスブルグ郊外の難民キャンプに収容され、28年が経過。ドキュメンタリー映像を模したショットが多く、当時の記録映像らしきものをよくよく見ていると、その当時というのが1980年代だったり、ドラマ部分で使われる監視映像に写りこんでいるタイムスタンプが2010年だったりして、つまりは映画の世界は「あり得たかもしれない現在」の姿であることがわかる。だから映画の中に登場する人間側のテクノロジーはどれも現在あり得るものだけで済んでいる。未来的なディテールはほぼゼロ。そして、映画の中で起きる事件も、本質的には現在起きていることだ。
恒常化した難民キャンプ〈第9地区〉はスラムと化して、地元住人達との間で摩擦も大きい。治安解決の観点からエイリアンたちを都市部から200キロ離れた収容地区へ移送する計画が立ち上がる。その責任者に抜擢されたヴァカスはどうにも器が小さそうな人間で、立ち退き手続きを進めていく中で嫌らしさが次第に眼につくようになっていく。
ヴァカスは基本的には自己中心的であり、自律した善悪の判断を行わず、権力を振るうことに快感を覚えるタイプの人間。それを「普通の人間」と言ってしまうのもどうかと思うけど、確かにそんなものなのかもしれない。このごりごりの利己主義者をフォローしていくのがだんだんうっとおしくなってくるのだけど、さすがに映画としてはそのままでは終らせない。導入部分ではエイリアンの卵を焼き尽くす際に出る胎児が破裂する音にすら愉しんでいたヴァカスの変化が、一つのカタルシスになっているのは確かだと思う。