■東京都写真美術館の企画展は米田知子の個展「暗なきところで逢えれば」。米田知子の作品は、その背景に作家の知的な視線が垣間見える。情緒的なものというより、知的なバックボーンがあり、それを情緒的に再構成している。かつておきた歴史上の事件や、事象があった場所の今現在の姿を撮影する。それは伊藤博文が暗殺された現場であったり、東西冷戦の最前線であったりするが、いずれも今となっては何の変哲もない「地上のどこか」だ。米田の視線は世界の無常を浮かび上がらせる。
韓国国防軍の防諜組織司令部跡、サハリン、特攻出撃基地跡地、いずれもかつてそこは地政的に意味を持つ場所だった。しかし今は意味を喪い、単なる無名の場所へと還元されている。もちろん観る側としては、そこにかつてあった意味を重ね合わせることはできるし、その瞬間、変哲もない無名の土地が意味ある景色として二重写しになる。しかし、土地そのものは人間の思惑からは中立だ。土地は土地として、人間たちとは無関係に続く。目の前の景色、その写真に意味を見出すのも、見出さないのも、人間の側がかかえる問題にすぎない。
歴史的に意味のある土地、例えばかつての特攻出撃基地であれば、そこにかつての名残を見つけ出し、情緒的にまとめることもできるだろう。しかし米田知子の目線はそのような位置を取らない。その場所を被写体として選んだ意味はあるが、その意味をビジュアルには出さない。かつて意味を持った何かの、今の景色を写し取る。観客はまず写真を観て、キャプションを読み、再度写真を観てそこに意味を見出す。その目線は米田知子のそれと重なっているはずだ。
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