■植田正治と言ったら鳥取砂丘を舞台に撮影されたシュールな写真が連想される。シュールなんだけど、明るくて、どの写真を見ても明るい。なんだか雰囲気が楽しそうなのだ。東京ステーションギャラリーの「植田正治のつくりかた」はその作風が固まっていく過程を追っていく。絵画的な絵作りを志向した「芸術写真」から始まった植田の写真はその後に興った新しい写真の表現主義の流れの中に入りながらも、絵画的な絵作りは継続し続けていた。古い写真なんだけど、古さはあまり気にならない、面白い写真だと思う。
東京ステーションギャラリーの展示では「砂丘シリーズ」以外にも「童歴」や家族写真のシリーズが展示されている。家族写真のシリーズが面白くて、確かに、家族写真を撮ることが一つの行楽イベントのように受け取れられていた時期は確かにあったように思う。「綴方・私の家族」シリーズの展示では娘(カコ)の手記があって楽しそうだ。家族の日常を撮った「家族写真」ではなく、作られた(セットアップされた)「家族」の写真という意味では「浅田家」に似ているのかもしれない。
砂丘シリーズが古いのにあまり古さが気にならないのは、砂丘を舞台にしたことで写真から時代的なコンテキストが飛んでしまったからなのだろう。何にもないところに街中にいるような装いをした人が配置されているので、日常的な物語をそこから読み取ることができなくなっている。過去から現代においてそんな状況は日常として存在していないので、だからなんだかシュールな光景となっていて、それゆえに古びることがない。
砂丘シリーズとして展示されていた写真の中に1枚、キツネの面をつけた少年が砂丘の上に浮かんだような作品があって、それはちょっとスピリチュアルな感じがしたのだけど、それがまた志賀理恵子の螺旋海岸のような雰囲気を持っているように思いました。写真の「演出」はリアリズムが隆盛する中ではいろいろと批判されてきたそうなのですが、そのセットアップ写真の面白さというのは先の浅田正志作品や志賀理恵子作品のようにふつうに受け入れられているわけです。写真は古びるのかもしれませんが、表現手法そのものに古びというのは(写真を構成するマテリアルに依存した技法は別でしょうが)ないのだろうなと思いました。