■昔、パラメディックを主人公にしたSFを書こうとしたときに何冊か参考にしようと読んだ本があって、その中に墨田区の救命救急センターに勤務する担当医が書かれたセミノンフィクションのシリーズがあった。ERの現場なのでもちろん、かつぎこまれた患者に対する文字通りクリティカルな判断が要求される場であり、生死の狭間を見せ付けられる場でもある。人が死ぬこと、あるいは生きること、というのは単に生命活動の停止と継続だけを意味しているわけではない。
救命救急センターに搬送される患者はもちろん物理的には身一つで運び込まれるのだけど、それ以外にもいろいろなしがらみを否応無く病院に持ち込んでくることになる。それは返すあての無い借金であったり、家庭の事情であったりする。人が死ぬということは、もちろん、生物としての活動を止めることであるのだけど、社会的な活動も中断されることでもある。考えるまでも無く当たり前の話なのだけど、社会的な諸々というものは、基本的に継続することを前提にしている。変化しないことが求められていると言っても良いのではないかと思う。
人の死によって、否応無く継続性は無くなり、変化がもたらされ、関係する人々に適応することが求められる。
しかし、人は死ぬものだ。受精の直後から、そのシステムは死へと向っている。理由はなんであれ、今のところ確実に死は訪れる。それが自然なのだ。
しかし、社会は死が訪れることを極力排除しようとしている。誰もが死を避けられないものであることを知っているが、それが顕現することを極力先延ばしにしようとする。その結果、どこか不自然な〈生〉の状態が作り出されることになる。人工的に生かされてしまう状態。極端な言い方をすれば、救命救急に運び込まれて生還した人は一時的に不自然な状態にあったのだろうと思う。
しかし、生かして欲しいと願う人──それは当人であったり、周囲の人々であったりするわけだけど──がおり、その願いを叶える技術があるのであれば、その願いに応えたいと思うのは人としては自然なことだとも思う。
今はおそらく、奇妙な過度期にあるのだろう。昔々であれば、死は否応無く訪れるものであった。遠い将来においては、死が選択可能になる時がくるかもしれない。今は確実に訪れる死のその瞬間をなるべく先送りにしようとしている。しかし、かといって不老が実現できているわけでもない。中途半端状態だ。
尊厳死という言葉があるけれど、そこには積極的な死の選択というニュアンスがある。でも、そこまでアクティブなものではなく、例えば「来年の桜を見れればそれでいい」とか、ある程度の満足があれば構わないではないかという、ゆるやかな選択、言い方を変えれば「ただただ無目的に生存させれられるのではない」選択肢、そういったものもあり得るのではないかと思う。
そしてまた、救命救急という現場においては、その死生観は単なる観念的なものではなく、解決を求められる現実的な課題として日々惑っている、運び込まれる患者一人一人が背負ってきたものがそれぞれお異なる以上、惑わざるを得ない。そして、患者が自身の生命力を試されているように、その患者に対峙する医療関係者も自らを試される日々が続いているということなのだろう。その場では医者としてでなく、一人の人間としてどう生きてきたかということが試されている。