■「引込線」は所沢で毎年開催されているグループ展、ということは知っていたのだけど交通の便のことや機会のこともあってこれまで行けないでいた。今年は日程的に問題なかったし、遠出に対する苦手意識のようなものがだいぶ薄れていることもあって足を延ばした。
最寄りは西武新宿線の航空公園駅で、そこからバスに乗って10分ほど。航空公園駅前ですでに陸の孤島のような郊外という印象だったのが、バスを降りるとあまり資本が集中していないロードサイドといった趣で、本当に会場があるのかどうか不安になった。もちろんそれは杞憂で、地図を頼りに歩いていけば畑の中に忽然と会場が現れたのだった。
美術館ではない場所での展示、要するにオルタナティブスペースでの展示は、展示場所自身のコンテンツが強いので作品の存在感が薄いと場所に飲まれてしまう。その点では、会場となった「旧学校給食センター」という場所はアクが強く、あまり作品が目立たなかったように思う。たぶん、会場が展示ブースとして大きすぎることも関係しているのだと思う。広いうえにいろいろなものががちゃがちゃとしていて、一見すると何が作品で何が元からある備品なのか区別しにくい。
ただ、その中でも印象に残る作品は幾つかあって、「カップ一杯」(益永梢子)の清楚なたたずまいや「土星」(伊藤誠)のユーモラスさは面白かった。別の建屋になる「空洞説-浴槽・身体」(遠藤利克)の静けさも記憶に残るのだけど、隣に展示されるはずの作品が制作途中になっていて、展示空間としては今一つ締まらない感じがしたのは残念だった。
会場が元学校給食センターであることを思うと、場所の記憶を象徴していた「カップ一杯」が個人的には一番だと思う。ただ、作品としては小品で、会場全体からするとずいぶんささやかなものだったことも確か。遠目にはそこに作品があることに気づかなかった。
存在感という点では「土星」が面白かった。この作品は「カップ一杯」とは逆で、場所との関連性はまず無くて、ユーモアを伴う存在感を持っていて「場所」に十分対抗していたように思う。
「引込線」を観たのは今回が初めてで、過去の展示と比較することはできないのだけど、この広くてごちゃごちゃした空間を使っての展示は難しいことだろうと思う。ただ、オルタナティブスペースでの展示としてはこのあいだ観た「あいちトリエンナーレ」を連想してしまう。スペースの大きさやコンテキストの複雑さ、場所が持つ背景などが異なるので単純に比較することはできないけれど、ただ、空間と拮抗するかあるいは雰囲気を塗り替えてしまった青木野枝の作品や向井山朋子+ジャン・カルマン、片山真理、あるいはナデガタ・インスタント・パーティーなどを思うと、少し小ぶりの作品が多かったかな、などと思いました。