■YCAMでPolarMのデジタルな大作を見た後に山口県立美術館へ移動。山口県美の過去の企画展は日本画や〈山口県ゆかりの〉洋画家の作品展がメインでこれまで興味を惹かなかったのだけど、今回は吉田芳生展ということで、珍しく現美にシフト。もっとも吉村氏は山口県出身だから、〈山口県ゆかりの〉という軸はブレていない。県美のHPには不釣合いにポップなバナーが登場したりしていて、中の人はずっとこういうことやりたかったんだろうなあ、などと想像したりしていた。
吉村芳生の作品は広島界隈で何度か目にしていて、昨年は広島市現代美術館の「一人快芸術展」の中でも紹介されていた。色鉛筆を使っての精細なコスモス畑の大型絵画や新聞紙面に自分の顔をオーバーレイさせた作品を(たぶん)日々書き溜めた連作群など、その技術もさることながら、その制作に要求されたであろう緻密さ、その注意力を持続させ続けた精神力に感嘆せざるを得ない。
新聞紙面に自画像を上書きした作品も、まずその新聞紙を模写した上に描いているのだから、その制作に投入されたエネルギーは想像するだに余りあるし、それが毎日(?)続くのだからその投入されたエネルギーの総量はもう想像できない。
展示された作品は、1980年前後の時期に制作された作品から、色鉛筆で描かれた花の絵画、そして、新聞と自画像。
花と新聞紙+自画像は他所で目にしているので、1980年頃の初期作品が初見。写真を素に絵を起こしているようだけど、そのプロセスが面白い。写真をグリッドで分割して各領域の明暗を数値化し、その数値に従った線を白紙のグリッド上へ引いていく。画像のデジタル処理を人力で行っているわけで、時期的にはFAXのG3規格ができた頃だから、そちらからインスパイアされたのだろうか。
花の絵は精細なもので、色彩によっては写真かと思う。良く観ると、手前から奥までの全てのオブジェクトの輪郭がはっきりしているのではなく、手前と奥がぼけ、被写界深度が存在していることから写真を描き写していることが解る。花の絵はわかりやすいのだけど、模写に徹底していることが何か物足りなく感じてしまう。そう感じるのは新聞紙+自画像の作品を知っているからかもしれない。
新聞紙+自画像は朝刊の一面を模写した上に作者の顔をオーバーレイさせた作品で、その表情が紙面を飾るヘッドラインとマッチしている。その日その日をにぎわせた出来事というものが日々存在し、その日その日の〈空気〉というものが存在した。そのことを思わせる連作となっている。一人一人にとっての日常というものは、そうした日々の驚き、喜び、怒りの積み重ねとなっている。
と、そういうわけでこの日はYCAMから山口県美への移動となって、どデジタルからどアナログのスペクトル両端を体験したような一日でした。