■原美術館で新しい企画展、「ミン・ウォン ライフ・オブ・イミテーション展」が始まり、さっそく観に行った。ミン・ウォンはシンガポール生まれの作家。映画を題材に、アイデンティティや普遍的な人の営為を浮かび上がらせる。同時にシンガポール映画界の「古きよき」黄金時代を思わせるコレクションを展示し、シネコン登場以前の懐かしい映画館に訪れたかのような演出を持ち込んでいる。その「懐かしき映画館」というスキームが日本でも全く同じだったという点は面白い。映画の黄金時代の姿はそのまま日本の映画界が隆盛を極めていた時代の姿を重なっているようだ。
ミン・ウォンはその「映画館」の中で、ポピュラーな映画のシーンをセルフポートレートのように再演してみせる。典型的な映画のシーンは配役を変えられることで文脈が変化し、同じ台詞に多重の意味が持たせられていく。面白かったのは「ライフ・オブ・イミテーション」で、これは同題のアメリカ映画(邦題は「悲しみは空の彼方に」)を扱い、ミン・ウォンは文化的な文脈を意図的に混乱させ、オリジナルとは違うメッセージを持たせている。
オリジナルは当時のアメリカが独自に抱えていた黒人問題を扱っているが、ミン・ウォンはその配役の人種を混乱させ、特定の民族アイデンティティ問題を多民族国家であるシンガポールの問題に置き換える。マレー、中国、インドそれぞれの俳優を入れ替えて演じたシーンを編集して一つのストーリーとして再構成することで、作品を観る人の視点は何人のものにも寄ることができず、3つの民族それぞれに平等に存在する普遍的なドラマとして受け止めることになる。オリジナルの米国映画には白人・黒人の階層社会が反映されているが、ミン・ウォンは階層構造を持ち込むことなく、一般的な民族アイデンティティの問題として描き出す。
エポックメイキングな映画ではなく、あえて陳腐な映画を題材に選んだのも、メッセージに普遍性を持たせることの一助となっている。オリジナルの映画は映画俳優等の存在から時代性や社会性を帯びずにはいられないが、それを再演することで匿名化し、ごく一般的なドラマの骨格だけが残り、そのドラマが孕む問題は普遍性を帯びる。
ただ、展示作品の点数からすれば少し寂しい印象が残る。展示室の一つには森村泰昌のセルフ・ポートレート作品が展示されていて、その手法を思えば関連性は明白であるにしても、何か違和感があったのも確かで、もともと作品点数が少ない中での苦肉の策だったのだろうと想像している。