■恵比寿の東京都写真美術館で2月に開催されていた恵比寿映像祭。今年も行きました。気が付けば6回目。ビデオインスタレーションとも映像ドキュメンタリーとも今ひとつカテゴリーがよくわからないことを感じていたのだけど、今回の映像祭は'true color'というテーマに沿って解りやすかったと思いました。ディビッド・ホックニーの初の映像作品も前評判で聞いていたのですが、個人的に忘れがたかったのはジョウシン・アーサー・リュウの『コラ』(Kora)でした。
『コラ』はチベット仏教において「巡教」を意味します。チベットの荒涼とした景色の中をカメラが移動していき、巡礼者や牛の群れ、色鮮やかな祈祷の飾りを追い抜いていく。荒涼とした景色は厳しい美しさを湛え、人が暮らすのは難しい環境であることが伝わってくる。しかし、だからこそなのか白と黒の大地とコントラストを成す空の青さ、ところどころに姿をあらわす背の低い草の緑が目に染みる。巡教の道行きは、天に向かうことにあるのではないかと思わずにはいられない。
先進国の文化圧力に消えていくローカル・カルチャーを扱った作品が多いのが今回の特徴かもしれない。スーザン・ヒラーの『最後の無声映画』は消えていく、あるいは今はもう失われた少数民族の言語を記録したアーカイブ。オーラル・ヒストリーという言葉がありますが、言語そのものが失われているということは、その民族の記憶そのものが丸ごと喪失していることを意味している。言語が失われている、ということは反バベル的な動きでもあるのだから、それ自体が悪いことではないと思う。
続きの部屋では分藤大翼の『カセットテープ』がかかっていて、こちらは中部アフリカのバカ族がカセットテープを修理している様子が収められている。砂埃の多い環境で、土の床の上に布を敷いたうえに座り、手でカセットテープを起用に直す場面で、そうした修理は自分も子供のころにやったことを思い出した。それにしてももう少し砂埃を払うとか注意した方がいいと思うのだけど、その荒っぽさは「中華街に屋台を出すハイテク屋」というSF映画で定番のキービジュアルをさらに推し進めたものだろう。しかもそれはフィクションではない。
そのカセットテープは西欧文明圧力の象徴なのかもしれないが、そのテープがあれば「自分たちの言葉」を残すこともできる。
文化・伝統は堅牢なものではなく、柔軟にさまざまなものを取り込みながら変容していく。「舶来のものを取り込んで独自のものにする」のは別に日本人のお家芸ではない。
伝統的な文化・社会との不連続面ということであれば、東欧世界には大きな亀裂が残っている。旧来のエスタブリッシュメントを否定する形で登場した、いわゆる「成り上がり」が自分たちの功績を残そうとするのか、いろいろと新しいことをやろうとする。あるいは、やる。その行為を象徴的に示しているのがアンリ・サラの『ギヴ・ミー・ザ・カラーズ』(Dammi i colori)だろう。そのフィルムの中では灰色の巨大な共同住宅がカラフルな色彩で無秩序に塗り分けられた姿が映し出される。その不調和さはダズル迷彩のようでもあって、都市景観における色彩にはセンスが必要なのだということがよくわかる……のだけど、日本ではその手の無秩序なロードサイドスケープというのは珍しくなかったりもするわけで、アーティストほど深刻にはなれない。住人が地域全体の調和に関心がなく、自分が住むところにしか興味がないことを如実に表わしている。だからこそ「景観条例」のような言葉が存在する。そうしたコードを決めて、周囲の調和を意識せずとも調和するように外観を整えられるようにしているわけだ。