■都現美の続き。未見の星座展は、毎年この時期にやっている新人・中堅の紹介のようなグループ展。淺井裕介さんの「泥絵」があるというだけで自分にはマストでした。都現美では以前常設展示のスペースで泥絵を制作されていたのですが、今は常設からはずされて、ときどきかかるくらいでした。淺井さんの泥絵作品は部屋全体、壁いっぱいに描かれるそのサイズが魅力で、描かれるモチーフは変わらないのですが見慣れた空間が神話的な世界に塗り替えられるという経験は毎回楽しいものです。
「未見の星座」展、他に面白かったのは北川貴好さんのインスタレーションです。「東京都現代美術館」という施設そのものを素材にした作品ですが、美術館のバックヤードが見せています。美術館というと、ふつう目にするのはエントランスロビーや展示室の白い空間であって、美術館施設そのものは目に触れる機会はあまりありません。たいてい立ち入り禁止になっていますし。
面白かったのは、美術館で使われているイコンを作品に利用する必要上、「順路」看板まで作品に使われているのですが、それを見ていたら、『美術館の中の人たち』(黒田いずま)という漫画を思い出しました。この作品、中に順路看板を使って遊んでしまう学芸員の人が出てくるのですが、そのことを思い出しました。美術館の入れ物としての空間は固定されているわけですが、展覧会ごとに室内をパーテーションで区切ってブースを作ったり、展示スペースである壁を増やしたりして空間そのものは融通無碍に形を変えます。「順路」看板はその変化する柔軟な空間を象徴しているように思います。
常設展示の方は20周年を記念して、固定したテーマを持たず、公立美術館の機能をテーマとしています。美術館機能そのものをテーマにした作品というのはそうそうないわけで、「未見の星座」展の北側さんの作品や、あるいはマーティン・クリードの『作品番号227、ライトが点いたり消えたり』もそうかもしれません。
ただ、美術館機能は作品収集、保管、修繕など幅広く、自分自身を語る作品というのはさすがにないようです。その意味で言えば、今回の常設展示は展示作品そのものをもって自分自身を語ろうとしているようでした。
面白かったのは現代作品の中には作品素材の寿命が短く、保管が困難なものがあるということでした。ナム・ジュン・パイクのブラウン管を使った作品は、ブラウン管そのものが生産中止になっていくなか、一度壊れてしまうと修復は困難です。工業製品は美術作品に使われていることを前提としていない、と言ってしまえばそれまでですが、基本的に美術品を後世に伝える機能を持つ美術館としては仕方ないでは済ますことができない問題です。ただ、ブラウン管テレビ、あるいはテープレコーダー、という製品が美術作品のコンテキストとして意味を持つのは、作品を見る側に使われている製品知識がある場合であって、それが喪われると作品の受け取られ方も変わってしまうと思うのです。仮に作品を構成している部品に寿命が来て修復不能となった場合、そしてその作品の受け取られ方の意味が作品発表当時とすっかり変わってしまっていた場合、など考えてみると、現代美術のアーカイブ機能を担う美術館が抱えている課題のむずかしさがうかがえます。