■「来たらざりし明日」。半世紀前の高度成長時代に都市が夢見た未来の姿。〈メタボリズム〉は「新陳代謝」の意味だけど、その代謝は都市が成長のダイナミズムを孕むがゆえに持続し得るメカニズムだった。経済成長が穏やかになり、そして失速と呼ぶにふさわしいフェーズへと移行するにつれて代謝の速度は落ち、積極的な新陳代謝のメカニズムを持たずとも旧来の〈スクラップ・アンド・ビルド〉の繰り返しで間に合うようになり、建築物そのものの寿命も延びていく中で、都市空間は保守化していく。
森ビル傘下の森美術館でこうしたギガコンストラクチャーへの憧れを形にしたような展覧会が企画されるという構図はわかりやすい。しかし、それは失われた時代への望郷なのか、それとも「かつての夢よふたたび」か。東北で広大な地域が失われてしまった現在、大胆な地域開発は可能な状態にはなっている。しかし、そこで持続的な都市圏の膨張は望めるのかについては、残念ながら疑問視せざるを得ない。もともと負圧の強い地域だったからだ。
森美術館は、かつて描かれた「来たらざりし未来」の姿を展示した。しかし、それら描かれた未来が(今のところ)到来していない理由について、何も触れていない。
もちろん、美術館というフレームワークの中での展示であるのだから、多種多様な姿をとりうる都市空間デザインの数々を提示すればそれで十分だと言うこともできるとは思う。しかし、都市開発や国土開発は個人の住宅をデザイナーに設計を任すのとは違う。それらの計画には多くの投資や期待がこめられる。それらを無駄にしても構わないとは考えにくい。それらの「夢」はなぜ実現しなかったのか。あるいは完成したとしてもその結果はどのように終わったのか。そうしたかつて見られた「夢」への評価は一切言及されない。せいぜい「実現した/しない」程度でしかない。
「未来を想像すること」そのものの大切さはわかる。想像しなければ何も生まれない。限りない現状肯定は終わらない絶望にしか向かわない。しかし、過去に学ばなければ、無駄な挫折を繰り返す中で未来を夢見る力は磨耗していく。そのことを美術館が自覚しているのか。あるいは自覚しながらもそのことに触れることはタブーであるとされているのか。何より、現代とつながっている感じを受けないのがとても気になる。
磯崎新が中国を舞台にして大型都市開発計画に携わっていることがキャプションの一つで小さく触れられているが、そのことが何よりもこれら展示が見せた未来の行く末を物語っているように思う。〈メタボリズム〉は膨張を続けようとしていた都市が選んだ服のようなものであり、膨張のダイナミズムを失った都市にとって、もはや不要な(しかし、違う形で持続しているが)コンセプトになってしまったのだ。それらビジョンは今膨張しようとしている地域で求められている。しかし、それら地域も未来永劫膨張し続けることはない。やがて、保守的な空間へと変貌していくことだろう。