■九州の現代美術館というと、鹿児島の霧島アートの森、福岡アジア美術館、という程度のリサーチはできていて、しかも福岡アジア美術トリエンナーレが今年開催されるという情報も掴んでいたので、福岡・博多には是非とも訪れたいと思っていた。ただ、交通コストがばかにならないので気軽に訪れるというわけにもいかず。スケジュールと見合わせて、ようやく博多へ行きました。
前回門司の北九州ビエンナーレとは連動しているわけではないそうだけど、合わせてみると九州北部で国際性豊かなイベントが行われていたのだなあというのが大雑把な感想。
「アジア美術」を謳っているだけあって、取り上げられた作家はアジア圏に限られ、そのうち一部の作家については、例えばマイケル・リンやツァイ・グォチャンのように特にアジアと銘打つまでもなく名前を見ている人もいるし、スボード・グプタについていえば森美の「チャロー・インディア」展で目にしている。アジア圏の作家作品というくくりで言えば、横浜トリエンナーレでも目にしているのだけど、福岡で目にした作品は横浜で見たものとは多少バイアスが違っているような印象を受けた。
それは、例えば迷彩柄のドレスに「平和の母」というタイトルをつけたチュオン・タンや、ドメスティックな環境問題を題材にしたソッピアップ・ピッチ(「デルタ」)、軍楽隊を撮影した穏やかな映像に軍事行動を表現するセンテンスをスーパーし、一転して暗然とさせる作品に仕立てたシャジア・シカンダー(「銃身を曲げる」)など、アクチュアルでシリアスな社会問題を扱った作品が目立つ。
その中にあっては、マイケル・リンやスボード・グプタの毒の無い、個人的には洗練されたように感じる作品はむしろ印象が弱い。それはドメスティックな相手に向けて共有できるメッセージを孕んだ作品造りをしたのか、グローバルに通用させるためにドメスティックなメッセージを薄めたためなのか、あるいはこうした憶測は所詮下種の勘ぐりでしかないのか、正直そこまでは解らない。
ただ、彼らの作品から感じるそれぞれの貧困、戦争、環境、政治問題に対する距離の近さが、その作品を見ている自分とはずいぶん違い、その違いがそのまま彼らの見ている世界との距離を感じさせる。
その距離がトリエンナーレのテーマ「共再生-明日をつくるために」に由来しているのは確かなのだろう。同じアジア圏といっても、まだ歩調は揃わない。それぞれがドメスティックに抱えている問題がまだ大きすぎるし、ベクトルも違う。「共再生」という言葉から喚起されるイメージには共に手を取り合って、というニュアンスが含まれるように思うが、実際にそのフェーズに入るのはまだ先のように感じる。
主会場は福岡アジア美術館で、この施設はリバレインという商業施設の中に入っている。ロビーの窓からは博多・ビル街のスカイラインで、その景色がまた出展作品からは遠い。副会場として冷泉荘という施設があり、これは古いアパートをリフォームしたオルタナティブスペースとなっている。雰囲気は例によってZAIMに近い。人が実際暮らしていたというイメージが付帯していて、温かみのある空間になっていた。そこでの展示作品は決して軽いものではないのだが、逆に施設が持つイメージが緩衝材となっているようでもあった。