■歳末ともなると、あちこちの美術館は休館に入る。今まで行っていない企画展で、まだ終っていない企画展で、とリストアップしていくと大原美術館のコレクション展が始まっていた。倉敷市美の企画展も終了間際で、ツアーコースを組むのにちょうどいいと倉敷へ。倉敷は修学旅行以来だ。
大原美術館では現代美術のコレクション展があり、その中に福田美蘭のコレクション展が含まれる。その名前だけを聞いてもピンとこなかったのですが、作品を見て思い出した。美術作品への「視線」そのものをテーマにした製作をされていて、本物/偽物をテーマにした作品や、フォトリアリズムではない具象絵画の「リアリズム」をテーマにした作品などがある。あちこちの現代美術展で見かけているはずだけど、ちょっと思い出せない。
真贋をテーマにした作品は、例えばあるゴッホの絵画とそれを福田が模写した絵画を並べてどちらが「らしい」かを鑑賞者に問う。ゴッホ展はつい最近も国立新美で開催されたが、展示された作品については、少なくとも美術館という権威が本物であることを担保している。福田の作品の前で鑑賞者は、作品の真贋を担保するフレームワーク外で目の前にあるオブジェクトが「ゴッホ作」だと認識することができるかを問われることになる。
それとは別に面白いと思ったのは、例えばモネの睡蓮を真似た作品があるのだけど、そこには「リアリズム」を感じない。「モネ風」に描かれた風景という認識はあるけれど、そこに強いフィルターの存在を意識せざるをえない。「フォトリアリズム」作品、例えば伊庭靖子や加藤美佳、あるいはつい最近見た小西真奈や三輪美津子などの作品には臨場感としてのリアリズム、あるいは作者が見ているものと同じものを観ているという安心感を感じる。
しかし、実際には「フォトリアリズム」作品製作の現場で作家が観ているのは「写真」であって、実物ではない。実物を観て描いているのは「モネ」であり、また、その点に関して福田は手法的にフォトリアリズム作家と同じ側に立っており、鑑賞者の視線は混乱することになる。鑑賞者は絵に何を観ているのか。作者が見たものを観ているのか、それとも作者の「フィルター」を観ているのか。そしてその「フィルター」を模倣する福田の作品を前にして、鑑賞者は福田の「フィルター」を観ているのか、それとも福田が模倣した作家の「フィルター」を観ているのかが、問われることになる。
福田の個展とは別に、現代美術作品のコレクション展示も行われていた。名前だけを並べるとやなぎみわ、鴻池朋子、会田誠、山口晃、小澤剛、ヤノベケンジ、小谷元彦…と、ここ数年あちこち回って知ることになった作家作品が揃っていて、復習をしている気分。メジャーどころが一通り揃った充実したコレクションと言って……良いのかな。
ただ、特に気に入ったのは北城貴子の林の中を描いた穏やかな作品。木立のディテールは光と陰のパターンに沈み、見えるのは木漏れ日とぬかるんだ小道に反射する光。ネオテニーやマイクロポップの弱弱しく、儚い存在を見せる作品は今の時代を反映しているかも知れないし、メッセージ性に富んでいるかもしれないけれど、それとは別に一種の逃避先のファンタジーとして、心象風景として映る森のビジュアルが心地よい。
ここで福田の作品が問いかけたものに立ち返る。個人的にはその絵に何が描かれているのか、その絵を誰が描いたのか、は重要な点ではなくなっている。その絵を前にすることで自分の中にどのような感情が呼び覚まされるのか。違う表現をすれば、その絵を「自分の部屋に飾りたい」と思うかどうかが重要になっている。
その点において、「モネ」か「モネ風」かは、もはや問題とならず、自分の中に呼ばれるものが同じであれば同等となる。誰が描いたか、というポイントはむしろ歴史的な関心事へと回収されてしまっている。無論、そのことが「モネの真作」という価値を貶めるものではないが、それは美術的な価値よりも、歴史的な希少物という、あえて言えば「経済的な」価値観が多分に入り込んでいるのではないか。福田の作品はそのことを顕わにしようとしているように思う。