■横浜から山口へ移動する途中、大阪を通りますが、大阪には国立国際美術館(NMAO)があり、今の時期('09.6.20-'09.09.23)やなぎみわ 婆々娘々展が開催されています。ほぼ同時期ルーブル展も行われているのですが、そちらはまた別の機会で観ることも多いでしょうということでスルー。新大阪で途中下車してやなぎみわ展を観に行きました。
やなぎみわについては、春先の都写美で「マイ・グランドマザーズ」を観たばかりですが、恵比寿の展示は「マイ・グランドマザーズ」に特化した個展であったのに対して、中ノ島の展示は「寓話シリーズ」と最新の「Windswept Women」を含む、比較的最近の作品をほぼ網羅した展示となっています。「寓話シリーズ」はグリム童話や童話でなかったりする(ガルシア=マルケスの「エレンディラ」など)物語の場面を少女(というか幼女)モデルを使って構成した作品群。老婆のマスクを付けた少女と、素顔を出した少女が物語の場面を演じる。寓話に登場する女性は老女か少女であることが大抵であるために、少女が老女を演じてしまうと、写真に写る彼女らモデルのロールがあやふやになります。
「Windswept Women」はたらちねを振り回して踊る老婆の姿を写真にしています。ただ、その写真のサイズはたぶんタテ3メートルはあろうかという巨大なものです。「マイ・グランドマザーズ」で描かれたイメージとしての老女は静かに枯れていくものが多く、エネルギッシュにいつ死ぬんだか解らないイメージは数点でしたが、こちらの「吹曝婆」は崩れた肉体をむしろ誇示して、力強くその存在をアピールしています。
(あえて言えば)醜く崩れた身体を誇示する「吹曝婆」は性的な圧力から解放されている存在です。それは生殖プロセスから外れているためで、その意味では生物学的にはターミナルフェーズに入っていると言えなくもないでしょう。
そのフェーズにある女性は生物学的な圧力から解放されたとはいえ、社会とのつながりはまだ残す余地を持っている。そのしがらみをどうするのか、あえて社会的生物として全面的にコミットするのか、あるいはそれすらも背を向けるのか。そうした闘争/遁走反応のサンプルが「マイ・グランドマザーズ」だと思うのですが、しかし、そこにまだ着地可能なモデルは現れていない。
「男性的視線」を忌避し排除するのは別に構わない。しかし、どう主張し抗ったところで生物的存在であることをやめられるわけでもないし、かと言って生殖技術を推し進め単為生殖を可能せしめよと主張するでもない。
宮崎駿的ヒロイン像から遁走したはいいが、その先に何か別のロールモデルがあるわけでもない。ターミナルフェーズに入らなければ自分として生きることができないとしたら、それはあまりにも時間がかかりすぎると言うべきでしょうし、今、少女として生きる世代へのメッセージとしたらずいぶんなものだという気もします。
少女と老女の間にあるミドルフェーズの女性をモデルにした作品をやなぎは作成していないわけではありません。それは初期の、「受付嬢の部屋」/「エレベーターガールハウス」で扱われていましたが、今はそこから離れています。しかし、そこにモデルを見出さないと何も変わらず、結局「歳を取れば時が解決する」といったところで終わってしまうような気がします。