■横浜市民ギャラリーあざみ野は久しぶり。あざみ野フォト・アニュアルとして今年は「写真の境界」展。写真そのものではなく、写真をベースとした作品で確かに写真ではあるけども、素直に写真作品とも言い難い、写真の周辺にあるようなプロセスを経て作られた作品を作る三人の作家によるグループ展となっていた。
印象に強く残ったのは多和田有希さんの作品。写真プリントに消しゴムやニードルで白い傷をつけ、写真全体が火花を散らしているように見える。以前、別の作家の作品で、人物を撮影して顔の部分にハイライトを入れて白く飛ばしたりした作品を目にしたことがあるけれど、そうした作品では人物の存在を汎化して神話的な雰囲気を持たせていたけれど、多和田さんの作品はポートレイトではなく、群衆や都市景観の全体に対して加工を加え、荒々しい印象を受ける。その印象はとても強いもので圧倒されるように感じたのだけど、作者コメントを読んだところ、加工に選んだ写真は作者自身が嫌悪を感じる風景とのことで、得心がいったのでした。
春木麻衣子さんの作品はハイコントラストで白く飛ぶか黒に沈んだ部分が多く、窓のような構図を持っている。画面の大部分を四角く白く飛ばした作品はロスコーの赤い窓の構図を思わせる。ただ、白い大きな光が作る印象はロスコーの作品に感じる淡い内省的な印象とは違い、こちらも多和田さんの作品同様ずっと強烈だ。
対して屋内で撮影され、外界を小さい矩形の中に閉じ込めた作品は窓から遠く世界を眺めているような感覚を与えてくれる。小さな窓を通して世界を眺める。その距離感は示唆に富む。意識という窓を通して世界を見ているからだ。
「写真」を素材としている、という点で徹底しているのは吉田和生さんかもしれない。吉田さんの作品で写真は色彩のパターンを与えるだけの材料になっているように思う。色彩パターンの出力を操作して抽象的なイメージを作り上げる。比較的具象的な印象を受ける《AIR BLUE》にしても、一見すると樹間から見上げた空のように感じるものの、実際は見上げた空と、空に浮かぶ雲のようなイメージが混淆している。空を撮った写真の画像情報ではなく、その色彩のパターンを使って《空》のイメージを作り出しているわけで、ここではもはや「写真」という言葉が担う意味は喪失してしまっている。