■横浜美術館の毎年度恒例の現美系展示は高嶺格『とおくてよくみえない』展。戸塚や上大岡で所用を済ませて、鎌倉街道北上再び。一旦Bankart NYKで女子美のグラセラミック展を観た後に、横浜美術館へ移動。昨年末にドガ展が終わる間際に観れるかと一度立ち寄ったことがあったのですが、その時は人ごみに断念して引き返していたのですが、今回は人ごみなぞ気配もなし。それはそれで残念なのですが、個人的にはもちろんオッケー。
展示の第一室は見かけはテキスタイルデザイン展示で、表層は絨毯か毛布柄を展示しているように見える。主役はかつての絵画表現で用いられた「飾り」であり、普通の展覧会であれば主役であったであろう「絵画」は小さく、脇へ追いやられている。ここでは主客が入れ替わり、「見えているが、意識されないもの」が殊更に強調される。そのテーマに貫かれた展示室にあって、その冒頭を飾る作品が『戦争』であることの意味は明らかだろう。ところで、他のそれぞれの作品に付けられたキャプションがだいぶまじめくさっていて面白い。まじめな(?)展覧会のパロディになっている様でもある。
第2室は他者との間に存在するセマンティックギャップについて。これは古くからある認識、すなわち「私が感じる〈赤〉とあなたが感じる〈赤〉は同じではないかもしれない」可能性について。個人が認識した内容を他者に伝えるにあたって「言葉」に多くを頼ることから生じるギャップであり、つまり例え隣にいる人であっても、そこには決して知り得ぬものが存在する。同じ月を見ていても、そこに感じるものはおそろしく個人的なものだ。そしてまた、他人が感じていることも、知り得ない。「よくみえない」どころではない。
第三室ではアクチュアルな題材が扱われる。パレスチナ問題、「アメリカ」、そして『とおくてよく見えない』。知り得るものではないが、そこには「ある」ことを知っている。見えないかもしれない。しかし、そこにあることは解っている。だから、そこに「ある」ものを感じ取れ。と、いったところだろうと思う。
「現実」は多様で、重層構造を持ち、一見して「解る」ようなものでは決してなく、そしてまた決して知りえることのできない領域を有している。しかし、そこにあることは状況から解っている。それをなんとかして「感じろ」、取り組めと、そのようなメッセージと受け取りました。
ここのところファインアート的な技術志向作品ばかり観ていた中で、久しぶりにメッセージ性を持った作品を見ました。第1室の作品群だけを取り出してみれば、ファインアート的(というか、そういう作品のパロディ)のように受け取れるのですが、一通り見てみれば、それは「他者の理解」という課題へと収斂していくように配置されているように思います。見ている時は漠然とした認識しか持てないのですが、見てきたものを後から反芻すると、しだいに固まってくるような、そんな余韻を持つ展覧会でした。