■久しぶりの原美に寄ったのは雪の日。'Be Alive!'はコレクション展、ということで過去に何度か目にした作品ばかりではと思っていたら、そんなことはありませんでした。自分はまだぜんぜん見れていないです。やなぎみわ、束芋、名和晃平、加藤泉など。加えてミカリーン・トーマスの「母は唯一無二の存在」──は、まだ準備中でギャラリー1の外からちらりと見ただけ。(なので、入場料は割り引かれていました)
個人的にはやなぎみわの〈砂女〉や「寓話シリーズ」の作品や、束芋の「日本の台所」を目にすることができてよかった。「寓話シリーズ」も〈砂女〉も少女-老女が混淆した姿がモチーフとなっていて、それが象徴するものについていつも考え込んでしまう。性的に成熟した女性期がすっぽりと抜け落ちて、子供にして老人の姿。成長過程にある姿ではなく、性的な存在でもない、〈女性〉のある完成した姿を示しているのかもしれない。とか。「幼女老女」をモチーフにした作品はだいぶ前からあるから、すでにやなぎ自身が語っているものがどこかにありそうな気はしますが。
「日本の台所」は話にだけ聞いていて今回初めて見ましたが、束芋らしく世相を切り取った黒い作品でした。としか言いようがない。90年代後半頃の雰囲気があんな感じだったかなあ。トピックを並べて世相を語ることは十分可能なわけですが、アート作品のように非言語的にまとめてしまうと、そこには表層的なロジックがないので反論ができない。表現形式に対する批判は容易なのですが、それは「表現されているもの」への批判とならないので、とにかく何か伝わってしまう。とんち絵みたいなもの、ってなんかその一言で終わってしまいそうですが。
他にはピピロッティ・リストの小品、名和晃平の「PixCell」がさりげなく。加藤泉の作品は何度か見たかな。併設されたミカリーン・トーマスの作品は以前にどこかで観たようなことがあるような。母親の存在感が強く伝わる作品で、やなぎみわの作品とは対照的です。表現したいモチーフが両者で異なるのでその女性像が異なるのは当然なのですが、〈砂女〉では祖母-孫というフレームがあり、「母」の存在がかすんでいることを考えると「産む性」としての存在が飛んでいると言って構わないと思います。
ここで連想するのは梨木香歩の『西の魔女が死んだ』で、この作品では娘と母の確執があり、そこに祖母が介在する形となっています。エレクトラ・コンプレックスというのは父親を巡る母と娘の確執ですが、『西の魔女…』では父親の存在はそもそも希薄です。〈砂女〉では言及さえされない。
女性アーティストの活躍は今に始まったことではないのですが、その中で「母」をモチーフとした作品というのは少ないように思います。ミカリーン・トーマスのその中にあって特異なのかもしれません。