■東京国立近代美術館の特別常設展示の「都市の無意識」は都市を題材にした現代美術作品を集めたもの。都市の要素のうち地下、スカイライン、雑多な情報のテクスチャの3つを取り上げ、それら要素に関連する作品を分類し、展示している。こじんまりした規模の展示だけど久しぶりに大岩オスカールのガーデニングシリーズ2作を観れて良かった。帰り際には新橋の資生堂ギャラリーに寄ってミン・ウォンの「私の中の私」を観た。ミン・ウォンは原美術館での「ライフオブイミテーション」(2011年)以来になる。いつのまにかそんなに経っていたんだな。
「都市の無意識」を構成する3要素は、計画された都市景観から外れたところにある。地下、アンダーグラウンドは日常的な都市生活の中では地下道や地下鉄ぐらいだが、作品に扱われているのはそこからも見えない、暗渠やあるいは都市河川から見上げた風景であったりする。都市空間では人目に触れないところはなんら取り繕った装いを持たない。その空間は煌びやかな地上の景色と対象的で、地上の整った装いというものがあくまでも表面的なものでしかないものを思い出させてくれる。
雑多な情報テクスチャ、「パランプセスト」(多層性)で思い出すのは映画「攻殻機動隊」(1995)やそのリファレンスにもなっている「ブレードランナー」(1982)のビジュアルなのだけど、展示では佐伯祐三が描くパリの景観「ガス灯と広告」(1927)であったりする。雑多な情報が重なり合って混沌とした模様のようになっていくのは最近のことでもなんでもなく、昔から都市はそうした装いをまとっていた。
最後の「スカイライン」は都市構造が持つ空との接点を扱ったもので、このセクションではやはり大岩オスカールの「ガーデニング」2作品が目を引く。「ガーデニング」(ニューヨーク)は9.11を直接の題材にしたものだけど、そのキャプションにある「破壊と新秩序の構築」には首を傾げざるを得ない。確かに事件当時はそうした見方もあったが、あれから10年たってみて、それほど大きく世界は変わっていない。変わっている部分はあるが、それは9.11の影響は薄い。それでも印象的な大作であることに変わりはなく、暴力を幻想的な表層として描いた作品は相対していると切なくなってくる。
資生堂ギャラリーのミン・ウォン「私の中の私」は日本の伝統的な舞台演芸や小津映画、アニメをリファレンスとして「私の中の私」を描く。登場人物のほとんどをウォン自身が務め(一部代役が入ってはいる)、登場するキャラクターがどれもウォンであり、さらにその劇の中で登場人物が重層的な内面を持つことが語られる。登場人物たちは誰もが「私」の投影になっている。時代劇の中で女形が「私は男であり、女である」(といったようなことを)語るシーンは衝撃的だった。「女形」は芝居上での約束事だが、「男が女装している」という設定になると、その約束事との間で錯綜した状態が生まれる。
そこには「男らしさ」「女らしさ」という定型的な見方への批判もあるだろうが、それ以前に端的に混乱した状態が作られたことが面白かった。