■平塚市美術館はもしかしたら初めてかもしれない。石田徹也は管理社会の中でデヒューマナイズされた人物象を数多く描いてきた。「擬人化」の逆で「擬物化」と呼べるかもしれない。彼が描く世界の中で、「本物の人」は抑圧され、狭い自分の部屋に引きこもざるをえない。類型的な青臭い世界観とも思うけど、どこかユーモラスな表現が魅力になっていて、一度観たらなかなか忘れることは難しい。
描かれた作品は、初期は人をモノに直接的に喩える表現を使う、ユーモラスな中に哀しみを感じさせるものが多かったものが、次第に抒情的な雰囲気を持ち、解釈の余地が多く残る表現へと変わっていったように思う。その微妙な変化が続いた先にどのような作品が描かれることになったのか、踏切事故で夭折されたことがとても残念でならない。
並行して袴田京太郎展が公開されていました。重たい情念がまとわりついている石田展とは対照的で、オブジェの一部、あるいはすべてをカラフルなアクリルボードで置き換えた作品は明るく、重さは感じさせない。カラフルな素材に置換されたオブジェは元々持っていた雰囲気も奪われてしまう。七福神の木彫り象はそのフォルムだけが残り、もともとの象が持っていた意味は失われている。象のフォルムから観る側が漠然と抱くその中身も、もちろんそんなものは無いことが改めて強調され、唯フォルムしかそこにはないことが示される。偶像というものの空虚さ、あるいは半ば自動的に想起してしまう観る時に働く連想のメカニズムを改めて示されているようにも思います。
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